前のエントリで『日本文壇史』の巻数をまちがえてご紹介しておりました。正しくは第8巻ではなく、第7巻です。訂正しておきます。
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何年も前から間歇的に読んでいる『日本文壇史』。資料の文章をそのまま地の文として引き写したものを切り貼りし、登場人物の行動や考えを描写する、伊藤整の奇妙な文体もすっかり癖になってしまい、しばらく読まないとどうにも気になってくる。今度はずいぶん長い(2年ばかりの)間をおいて、第7巻「硯友社の時代終わる」を読了した。 この巻は、対象としている時代(日露戦争前夜)そのものの特質だろう、ここまでの六つの巻に比べてもひときわ濃厚な一冊で、とりわけ胸に迫るのは斎藤緑雨の死の場面だ。よく言われるように、そもそも明治の文学者たちというのは、現代の基準で言えばほとんどがえらく若死にしているのだが、「寸鉄釘を穿つ」タイプの批評家・緑雨のように、才能はありながら圧倒的な名作を遺したわけでもなく、当時も今も「知る人ぞ知る」的ポジションにとどまっている――それだって実はたいへんなことであるわけだが――人の、いかにも中途半端な死に様というのは、何ともいえずやるせない。しかもそれが、才気煥発な毒舌と皮肉を弄する一方で、貧乏のせいで究極の夭折をした樋口一葉の晩年(!)に交わり、一葉の死後に草稿が出版されるよう尽力した優しい人の、三十代後半の死であるならば。 明治・大正の文人たちの人となりをもっと手軽に――とはいえ、なかなかの含蓄をもって――イメージするには、斎藤なずなの漫画『千年の夢』をどうぞ。斎藤緑雨が登場する樋口一葉の話は下巻に収められている。
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というわけで、新田次郎の山岳小説の傑作群をどうぞ。暑さの夏に、これ以上うってつけの読書はありえまい。
集団にけっして道を譲らなかったという〈孤高の単独行者〉加藤文太郎にちょっとだけ倣って、僕も我が物顔で通路を覆い尽くす集団と相対したときには、けっしてよけずに真ん中を突っ切ることにしている(1対1のときは率先して道を譲る)。二人の優秀な女性登山家たちの生涯を描いた『銀嶺の人』のラスト近く、主人公の一人が遭難死する場面の鋭利にして静謐な描写は、忘れ得ぬ名文のひとつである。 僕が若い頃に純粋な敬意と憧憬の念を抱いていた当時現役の登山家たち、植村直己も長谷川恒男も小西政継も、山で死んでしまった。修士課程の院生だった頃に冬の硫黄岳での訓練山行につれていってくれたガイド役の女性登山家も、その後剣岳で滑落死した。当時二十代後半だった僕を、なぜか16歳と勘違いして、山小屋の人に対する口の利き方が生意気だと注意されたことをよく覚えている。ちょっとした趣味の範囲であっても、継続的に山に登っていると、生きることの果ての死というものについて、否応なく考えるようになるものだ。
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だいぶ前にブックオフの100円コーナーで拾っておいた村上春樹の新訳を、昨日今日でようやく読むことができた。前に読んだのはもう20年以上昔の高校生のとき、そして『ライ麦畑』は、ご多分に漏れず、僕の生涯忘れ得ぬ一冊となったのだった。とはいえ、具体的に覚えているシーンは二つしかない。一つは語り手である少年ホールデンが、母親が送ってくれた荷物の中に新品のスケート靴を見つけ、スポーツ用品店であれこれマヌケな質問を繰り広げている母親の姿を想像して落ち込むところ。それは僕自身にとってもたまらないような胸の痛みをいまも感じさせるエピソードだ。もう一つは実質的なラストシーンで、雨の中、メリーゴーラウンドに乗る妹を眺めながら、なにがなんだか本当にわからなくなっていくホールデン。 それにしても、ということは、僕が小説の中身についてちゃんと記憶していたのはこの二つのシーンしかないということでもある。あとは、喋りまくるホールデン少年の痛々しさの、漠然と白っぽい感覚(野崎訳旧単行本の白い表紙のせいにすぎないかもしれないのだが)だけが自分の体内に残っていたということなのだ。村上訳は、かつて未熟な僕に永遠の夏休みを予感させ、少しばかりの恐怖とともにたじろがせてくれた躍動的な野崎訳に取って代わるものではないけれど、村上氏の案外と分析的な資質がよく発揮されて、克明な心理記述として通りのよい訳になっているように感じた。
ちなみに、僕が一番好きなサリンジャーの作品は、『ナイン・ストーリーズ』に入っている「笑い男」。もちろん「バナナフィッシュにうってつけの日」もよい。ヘミングウェイのような無骨な、血の臭いのする残酷さが、むしろそれゆえに賞賛される世界の、よりいたたまれない種類の残酷さの方にこそ、息詰まり、胸の痛みを感じさせられたことのある(まともな)少年少女たちに、いつか一度はこの作品を読んでほしいと思う。ついでに、アフリカでそのヘミングウェイと邂逅し、「やたらと動物を殺しまくる男だった」と日記に記したイサク・ディネーセンの名作――『ライ麦畑』のなかでホールデンも読んでいる――『アフリカの日々』の、新装版が出たようなので、それも並べておこう。カップリングされているチュツオーラ『やし酒飲み』というやつの方はまだ読んだことがないけど、amazonの読者たちのコメントを読むと、とっても面白そうじゃないか。
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頭がいい人の文章を読むのは辛い。たとえば太宰治がそうだ。こんなに明晰で、何もかもが見えているのに、生活なんてものをしていかなくちゃならないのは、なんと理不尽な重荷だったろうと、かわいそうでたまらなくなるのだ。もちろんそんな人は滅多にいない。適度に愚鈍でなければ、さも何かを「自分で考えた」かのようなフリをして、文章などというものを書いたりはできないからだ。もちろん僕自身もそうだ。
有島武郎も、僕にとってはそうした希有な「かわいそうな人」の一人だ。『或る女』は、女が人間であること、すなわち自我だの感情だの性欲だのといった厄介な「精神」をもつ存在であることを――そんなの今では当たり前のこと? 本当に?――完膚無きまでに示した超傑作だが、他者が自分に向ける視線の奥にあるものを異様なシャープさで言語化しつくす知的眼力と、ほとんど幼稚とさえいえない剥き出しの性欲や嫉妬感情に翻弄されることとのあいだを激しく往復する主人公・葉子は、人間と外延をほぼ等しくする一個の世界であると同時に、いうまでもなく有島の自画像でもある。そうとしか言いようがない。だから、『或る女』の、何がどうなったのかもよくわからない凄絶なラストシーンを読んでため息をつくとき、僕は有島武郎がかわいそうでならないのだ。
短編「小さき者へ」の最後のところで、母親を喪った自分の三人の子供たちに向けて父親が語る、あの雄々しい――とあえて書きたい、だって有島武郎ほど「男らしい!」人はいないのだから。いうまでもなく、それは彼の生物学的組成とはまったく関係がない――励ましとも希望ともつかない、宙に放たれた遺言のような言葉を、僕は未だに真正面から受けとめることができなくて、少し離れたところからおずおずと、隠れて耳をそばだてる。いくらか気弱になった夜などには。
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きのう、1年生向けの授業でネタにしようかと思って持っていったが、結局つかわなかった表題作を、きょう電車のなかで読んだ。自分とは何かという問いを脳科学的な決定論と自由意志への信憑との葛藤から――さらにその深奥にあるのは個と進化との相克である――考える、とまとめれば身もフタもないが、このまさしくグレッグ・イーガンなモチーフを、最も哀切に描いた短編だろう。
それにしても、以前に読んだときは、自己がしょせんは進化の産物であることを受け入れる主人公の〈決意〉をきわめて肯定的なものと感じたが、今度改めて読み返したら、哀しみのほうがずっと重く胸に迫ってきた。かつて黄金時代のSFは、アイデアの斬新さが勝負であるがゆえに「決して二度読んではいけない」などと言われたが、遅くともエリスンやティプトリー以降の成熟したSFにはあてはまらない。イーガンにしても、ウェルズやハミルトンのような古典のような意味で「史上初」のアイデアがあるわけじゃない(とはいえ、「量子サッカー」の目眩く描写はかつてどこにもなかったものだと思うけれど)。むしろドラマと一体化したその思考実験の展開の突きつめ方にこそ面白みがあるので、すぐれた哲学書や評論と同じように、何度も読む度に新鮮な驚きがあるはずなのだ。
とはいえ、実はこれまでぼくは同じ本を2回以上読むことはあまりなかった。『資本論』だって大学2年のときに一応読んだっきりでいままで来てしまったし、『言葉と物』は2回通読したけどそれはたまたま読書会があったから。『道徳の系譜』も『プロ倫』も『アンチ・オイディプス』も『理由と人格』も、部分的に見直したのを除けば、ほぼ1回しか読まず、そのうろおぼえを頼りにあれこれ考えてきたのだった。しかし、最近やっとわかったのは、それじゃいかん!ということ。そして、それはもったいなさすぎる!ということ。大学院の授業で扱うためにデュルケーム、ウェーバー、マルクスをそれぞれ数年以上ぶりに再読したら、昔よりはるかによくわかって面白い、という経験をしたのである。とはいえ、1回目から間をおかずに再読しても、効果は薄いようだ。『人間の条件』も数年前に授業で扱ったので2回以上は読んでいたが、その本当意義がわかってきたのは昨年『〈個〉からはじまる生命論』を書きながら一部を読み直しているときだったもの。若いときに、わけもわからずがむしゃらに読んだ名著を、数年以上たってから落ち着いて読み直すのがいいみたいだ。 こんなことはもしかしたら常識もいいところで、今頃こんなことに気づくのは遅すぎるのかもしれないが、まあ仕方がない、これからはすぐれた本を繰り返し読むことにしたい。そして若い学生諸君には、どんなにわからない本も石に齧り付くつもりでとにかく読んでおくことを勧めたい。それにしても、とっくに折り返し地点も過ぎたというのに、ますます長い寿命がほしくなるなあ。
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まだ実物を見ていないのだけれど、どうやら490ページもある大著のようだ。長田弘の、たとえば『詩は友人を数える方法』の文章の佇まいに、僕は深く影響を受けていると思う。十年前のサンフランシスコで、夜の侘びしさに茫然としたとき、僕は長田弘の文体でそれを言い表そうとしていた。長田弘の「旅」は「夜」の同義語だ。
でも、なんといっても僕にとっての長田弘は、あの透明な残酷さを湛えた『ねこに未来はない』に尽きる。
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「つくばみらい市における平川和子さんの講演会直前中止に抗議し、
改めて実施を求めます」。遅くなってしまいましたが、リンクしておきます。署名の締め切りは28日(正午)で、あまり時間がありませんが、事態の推移もリンク先にしっかりまとめられていますので、よくお読みの上、反「DV防止法」活動に対抗すべしとの主張に賛同された方は、ぜひ署名してくださるようお願いいたします(私は発起人ではありませんが、DV問題の啓発さえできないという今回の事態を憂えて署名した者です)。 |
僕にとっては「OK・コンピューター」以来の、何度も繰り返し聴きたくなるアルバム。「KidA」以降のレディオヘッドは、どこかへ向かって動き続けていることはよくわかったけれど、歌謡曲とカレッジフォークとビートルズで培った僕の耳には染みてくるものじゃなかった。ただ素直に好き、とは言えなかったのだ。でもこのアルバムはよかった。ちょっとダウナー系で、気持ちが落ち着きすぎるきらいはあるけれど、音のひとつひとつがきらめいていて、それらがかたちづくる隙間が心地よい。
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わたしは暴力が大嫌い、であることに偽りはないのだが、切った貼ったの肉弾戦における有形力の行使にぞくぞくさせられることがあるのは否めない。人体の裸の物質性が露呈する瞬間――それをきわめて自覚的な方法論をもって(たぶん)はじめて形象化した画期的な漫画が『寄生獣』だった。この作品はまだ同時に、物質的に変わることは、もちろん「人間性」の根本的な変容でもなければならないということを示したと思う。『無限の住人』『ホーリーランド』『あずみ』といった暴力満載漫画にはそうした変容は希薄だが(『無限』はあまりに人情が濃厚で暴力そのもののリアルさがマスキングされがちだし、『ホーリーランド』は(青春ものだからいいんだけど)主人公が暴力の交歓を通じて友情を獲得していくという弁証法がきれいすぎるし、『あずみ』に至っては「怪物」たる少女あずみが「人間」へと回帰していく物語になってしまった)、どれもここまで読んできた以上、やめるわけにはいかないのである。とりわけ、マンハッタンのブックオフで1冊ずつ買って読んだ『ホーリーランド』は、しみじみと胸に染みたよ。
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「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する (光文社新書 319) posted with amazlet on 07.11.07 亀山 郁夫 光文社 (2007/09) 売り上げランキング: 10571 しかし僕が真に惹きつけられたのは、実は『カラマーゾフ』続編の話そのものよりも、作品の時代背景に関する説明のなかに出てくるロシアのキリスト教の異端セクトたちである。アンチ・セックスを追究して、風呂場で集会をやったりしているうちになぜか大乱交大会に突入してしまい、そうこうしているうちにボコボコ生まれた父親不明の子どもたちを「新しいイエス」「新しいマリア」と呼んで集団で育てたという「鞭身派」にも笑えるが、それを批判して性の否定を徹底するために「性器をナイフで切断したり、ハンマーでつぶしたり、焼き鏝で焼いたりするいわゆる『ペチャーチ』と呼ばれる行為を繰り返した」(ぐえ)という「去勢派」の、あまりといえばあまりのベタさもどうにかしてほしい。 だが、こういうのはまだ「ありがちだな」ですませることができる。僕が思わず深く興味をそそられたのは、ニコライ・フョードロフという男の「思想」である。著者の説明を引用しよう。
これもまた僕にとっては、その主張のどこをとってもまったく賛成できないのに、全体としてはともかく「スゲエ」と唸らされずにはいられない種類の「思想」である。それにしても、「キリスト教」ってのは、とてつもなく幅広い思想のバリエーションを生み出すポテンシャルをもっているのだなあと、思わずしみじみしてしまう。しかし、アレだ、このニコライ・フョードルについてはそれなりに研究があるらしいのだが、やっぱりロシア語が読めないといけないわけよね……。晩年の塙嘉彦は病院のベッドの上で新たにロシア語の勉強を始めていたというが。トホ。 |
ソラリス (スタニスワフ・レム コレクション) posted with amazlet on 07.10.12 スタニスワフ レム Stanislaw Lem 沼野 充義 国書刊行会 (2004/09) 売り上げランキング: 135144 『〈個〉からはじめる生命論』の執筆が佳境に入り、アタマを掻きむしっていた頃、もしかしたらうまくネタとして取り入れられるかも&精神安定剤になるかもという二重の期待をもって読んだ。感動したSFは二回読んではいけないという金言は知っていたが、レムはそういう素晴らしき一発芸の人ではないから、かつての自分の打ち震えるような感動の正体を三十年近くが経ってから再確認したいという思いをもって読んだ(ちなみにSFファンだった当時の僕がいちばん好きだったSF作家は、エドモンド・ハミルトン、星新一、小松左京、クラーク、デーモン・ナイト、レム、ティプトリー。次点が新井素子)。 そして感じたこと。ソラリスの海という得体の知れない他者の得体の知れなさは微塵も揺るがなかった。とはいえ、この三十年間、自分なりに「生命」とは何かとか、「コミュニケーション」とはどういうことかとかについてそれなりに考えてきたわけなので、十代で読んだときのように「この世界にはこのような問題が存在するのか!」という圧倒的な驚きはもはやないのは仕方がない。 ストーリー面では、記憶のなかよりもはるかに主人公と「彼女」ハリーのかかわりが密に描写されているのが意外だった。その点では、むしろ僕がタルコフスキーの『ソラリス』に対して抱いていた印象に近かったけれど、しかし到底「極限の愛の物語」的なしっとりした感触は希薄である。誰もレムにそんなものを期待はしないだろうが。 翻訳については、ハヤカワ文庫の飯田訳『ソラリスの陽のもとに』がロシア語からの抄訳だったのに対して、この沼野氏の新訳はポーランド語原典からの完訳という空前の偉業であり、その価値は疑うべくもない。飯田訳には含まれない建造物の描写は迫力十分で、それだけでも読んでよかったと思う。ただ全体的には、なんというか、あまり洗練されていない文学青年風というか、僕がずっとレムの文章に対して抱いていた硬質の感触が弱く、ちょっと戸惑った。これが正確な翻訳なのか、あるいは沼野氏の日本語の特徴なのか、それはわからない。 |
これも前から気になっていた、絲山秋子氏の『沖で待つ』と『イッツ・オンリー・トーク』をようやく読んだら、なにかが普通のと違うマッサージを全身に受けたような感じがして、とても気持ちよくなった。細かく書きたいことがいろいろあるが、それはまたいずれにして、何より気持ちよいのは、よく切れる包丁で卵を切ったときのような感触の会話たち。先日紹介した長嶋有もそうだったけど、これこそが現代小説の正統なる会話文ではないのか。僕がかなりの確率で翻訳SFに萎える理由のひとつは、何千年もの未来で社会も人間の感性も大きく変わっているはずなのに、いつまでたっても女が「あたしはそんなことはしないわ」「あら、そんなことはないわよ」みたいな、何者?と突っ込みたくなる口調で喋ること。「友近」じゃないんだから。たとえばグレッグ・イーガンの『ディアスポラ』の会話部分については、まったく新しいジェンダーレスの日本語会話文体を創造するのでなければ、せめて絲山秋子の登場人物たちのように小気味よく喋らせてほしかった。
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長嶋有の『猛スピードで母は』が面白かったので、『タンノイのエジンバラ』(文春文庫)という短編集も読んでみた。これも良い。表題作では、『猛スピード』所収の二作品とは違って、語り手が男なので少々戸惑ったけど、話に入り込めばとりたてて違いはなかった。ちなみにタンノイとはイギリスの名門スピーカー・メーカーで、僕はもう少しオーディオ的な記述があるのかと期待しつつ、そんなわけないよなと思っても居たが、やっぱりほとんどなかった。でも、登場する女の子(小学生)がその音の良さにびっくりするというシーンがあって、なんとなくうれしい。
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近所のブックオフの105円コーナーで拾った長嶋有『猛スピードで母は』を読む。これは……良いですよ。ほんと。僕は小説については饒舌系の、すべてを説明しきってやるという感じの文章が好きなのだけど(まあ自分もわりとそういう資質だし)、逆に削ぎ落とし系というか、簡潔な言葉を無造作に並べただけという風情で、そのじつ世界の細部をふっと現前させているような文章に出逢うととても感心する。長嶋有の文章はまさに後者の典型で、エピソードの一つ一つはまったくたわいないし、「あるよね〜」と思わず頷いてしまう親密さはあるとはいえ、その程度のものにすぎないとも言えるようなものばかりなのだけれど、その積み重ねが実在の不透明さをしっかりかもしだしているのだ。芥川賞受賞の中編「猛スピードで母は」の全編を覆う「霧」のモチーフはそのことの自覚的な隠喩であるようにも思える。だがそれと同時に、濃霧のなかを突っ切って団地の壁に据えつけられた梯子を一気にのぼってゆく「母」の姿は、現実がただ退屈に静止した現実ではないということを読者につきつける。早朝の交差点を色とりどりのフォルクスワーゲン・ビートルが走り抜けていく光景も、夢かうつつかのあわいにあるがゆえの柔らかな美しさだ。もうひとつの中編「サイドカーに犬」も、素晴らしいタイトルだけでなく、やはり単なる意味論的可能世界ではない世界とはどういうものかを思い出させ納得させてくれる(哲学的には、単なる可能世界には細部がないのだという)という意味でまさしく小説の王道としての「現実を描いた」傑作。これを読んだら、むしょうに麦チョコが食べたくなった。
ところで、本作は文庫本でも出ているが、僕が購入した単行本のほうが、佐野洋子の表紙も可愛くておすすめ。 |












































