オリンピック三昧、ながら。
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2004年の刊行時にはかなり話題になった本をようやく読む。環境リスクとは何か、その意義がよくわかる入門書。 多くの評者たちが言及してきたように、「思想」の争いには決して決着がないことを若くして悟り、万人が認めうる「ファクト」だけを追究すべきだという信念を、学会や政治家や市民団体からのさまざまな圧力に抗してつらぬく姿勢にも感銘を受ける。だが、むろんそれ以上に大事なのは著者が結果として環境リスク評価に成果を挙げてきたという事実である。良心的な姿勢をもっていても、学問的に見るべきものを生み出せなければ、そんな良心なるものには一文の価値もないのだから。 けれども、僕が著者を本当に信用できると思うのは、むしろファクト至上主義という信念を自ら裏切るような思索を展開してしまうところである。現実的な問題にかんして、知的に誠実であれば、そうならざるをえないだろう。しみったれた「一貫性」などに納まってはいられないのだ。 たとえば、健康被害のリスク評価にQOL(生活の質」という概念を導入すべきかどうかをめぐる、以下のような叙述。 これはもはや「ファクト」の領域ではなく、著者が断念したはずの「思想」「イデオロギー」の領域の問題であることは言うまでもないだろう。ここから、ファクト至上といってもそれが通用するのは前提として大方の価値判断が共通している問題についてだけであって、そもそも何をリスクとみなすかという価値判断や世界観が争われうるところでは役立たない、といった論難をぶつけることは簡単なことだ。それはたしかに間違っているわけではないし、倫理学の存在理由はそこに宿るのだとも言える。 でも、その誰にでもわかる正しい論難をふりまわして、いろんな意見がある、利害対立がある、といった自明のことを言い立てているだけでは、いくらなんでもバカすぎる。それも簡単に認識できることだ。「評価にはこういう難しさもあるのです。しかし、すべてを救うわけにもいきませんので、何らかの評価が必要になるのです」(129ページ)という著者の淡々とした言葉にかくされた重みに見合う「思想」が必要なのだ。「差別」を生みださない行為というものはない。何かを実行し、誰かを救うことは、必ずその影としての差別を顕現させる。まったく副作用のない薬品がありえないように、まったく差別的でない社会的行為というものもない。したがって、何かを行ない、何かを喋るなら、必ずそれによって傷つけられ、相対的剥奪を被る人はいる。それは行為すること、ましてや言論を弄することの原罪のようなものだ。もちろん、何もせず、何も主張しないことで、そうした原罪を免れることはできない。その場合は、いま行なわれている差別を追認するだけのことなのだから。だから、水に石を投げ込むことで生じる波紋をどのように引き受けるかが問題なのだと思う。 僕にとっては、著者のような人こそが、真に「学者」と呼ばれるにふさわしい(「学者」という称号に、僕はつねに高い価値をおいている)。中西さん(だけではないが)に比べれば、自分はまだまだとてもじゃないが学者などと名乗るのはおこがましい、と感じる。しかし、だからといって、僕が中西さんのようなスタイルの学問を今後やっていくということでもないし、「思想」が無意味だと考えるわけでもない。むしろ逆に励まされる気がする。かつて筒井康隆は、新田次郎の『八甲田山死の彷徨』(だったっけ?)を読んでノックアウトされ、「これこそが小説だと思う、自分にはとてもこんな小説は書けない、だが自分の書くような小説もあってよいのだ、と自分に言い聞かせている」という手紙を新田氏に送ったそうだが、それに倣って、僕には著者のような学問はとうていできないが、いま自分が自分なりに突きつめてやりつづけているような「学問」もあってよいはずだと、自分に言い聞かせつづけよう。 |
明治学院大学社会学部による「共同プロジェクト」の宿題がやっと出揃いました。小生は第1巻の第1章と巻末の解説を書いています。いちおう、学部生のゼミのテキストとして使える感じをめざしました(少なくとも僕はそういうつもりで易しめに書いたつもり)。
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「大学院基礎演習」の三つ目のテキスト。冒頭の第一章「商品」と第二章「交換過程」のみ。ドイツ語原文に照らし合わせての正確さについて僕には評価することはできないが、日本語としてはこなれてリズムのよい文章になっている。原語が同じなのでなるべく日本語でも同じ訳語を充ててほしいところで、文章の自然さを優先して訳し分けているところも、そこから原語を類推して原著にあたれないほどの意訳になっているわけではなく、使いやすいテキストだと思った。 内容は、もちろん、めちゃくちゃ面白い。価値とは何か、交換とはいかなる現象か、社会という概念、人間の同質性という観念の歴史性、貨幣と言語の異同……といった一般的な問題について、いきなり胸ぐらをつかむような鋭さの議論がぐいぐい展開されてゆくわけだ。(マルクスが、商品たちの「社会」をいうのは、人間社会からとってきた二次的な比喩ではない。) 参考書としてあれこれひっくり返してみたなかで、約20年ぶりに読み直してみて、やっぱりこれは凄い本だったと改めてしみじみしたのは、
それにしても、『資本論』があって、この本だってあったのに、どうしてその後も曖昧模糊とした「構築主義」(=ただの俗流観念論)なんてものが流行ったのだろう? (「クレーム」活動をめぐる社会学的に使用範囲の限定されたハナシとかは別によいのだが)。 |
いつもポケットに吉田秀和を。ちくま文庫で「吉田秀和コレクション」が出たので、電車のなかで一冊ずつのんびり読んでいこうと思っていたが、そうはいかなかった。ゆったりした文章なのにいつのまにか引き込まれてどんどん読み進んでしまうのは――ただし、時折歩みをとめて自分の音楽体験と(僭越ですが)照らし合わせながら――音楽を聴く人間なら誰でも考えたことがあるだろう素朴な問いの数々に、著者がノンシャランとした語り口で、しかしあまりに適確無比な「回答」をどんどん出していくから。しかもそれは、いわゆるクラシック音楽にかぎられない、普遍の認識なのだ。 たとえば、ロックを聴いていて、どんなミュージシャンも最初の3、4枚までのめくるめくような閃き・驚きが、その後の作品から消えていくのはなぜなのだろうか、と思ったことのある人は多いだろう。その点について、吉田氏はこんなことを言っている。 なんと平明で、簡単に読み流してしまいそうな文章で、「ほんとうのこと」をこのうえなく適確に言ってしまうのだろう! しかも吉田氏は、ここまでに書いたことを(またしてもあっさりと)裏切るようにして、つづけるのだ。 そして吉田氏は、この「自己内対話」には決着をつけずに、「だが、芸術が、芸術として、より完成したものになるというのは、どういうことか?」という、より本質的な問いのほうへ進み、シューベルトについて語るのである。 かつて水上はる子は、ロック・ミュージシャンの最高傑作は2枚目まで(あれ、デビュー・アルバムだけ、だったかな?)という趣旨のことを言い、それをロックという現象そのものの本質に重ねていた。正直に言えば、僕も同じように思うことが多かった。たとえば、何千回も聴けば聴くほど、ビートルズの最高の瞬間は「抱きしめたい」と「シー・ラヴズ・ユー」だという冷厳な事実を否定することはできなくなっていくのではないか? ブルース・スプリングスティーンの傑作群の中で僕が最も愛する曲は、3枚目の『明日なき暴走』の冒頭を飾る「サンダー・ロード」だけれども、そこにさえもはやデビューアルバムや2枚目の「都会で聖者になるのは大変だ」「7月4日・アズベリーパーク」のあの息を呑む瑞々しさは薄れているのではないか? U2の名作は『ヨシュア・ツリー』で、たしかにあのアルバムが出た当時ぼくも「何かとてつもないことが起きている」感に打ち震えたものだけれど、でも本当に食い込んでくる曲は「サンデー・ブラデー・サンデー」「ニュー・イヤーズ・デイ」までだったように思えてならない。同じことは、ボブ・ディラン、ザ・フー、エルトン・ジョン、ルー・リード、ブライアン・イーノといった巨匠たちから、少なくともオアシスにまでつづいていると、どうしても思ってしまう。それは、ポール・マッカートニーやブルース・スプリングスティーンの近作がどれほど素晴らしかろうと――たしかにそれらは素晴らしいのだ、まるで昔の作品たちのように!――変わらない。 けれども、一方でどうしてもそう感じながら、ロックにだって「成熟」があるのではないか、「完成」そのものはなくとも、そのどこか知らぬ方向へ向かって進むということはありうるのではないかと、考えたい気持ちもあるのだ。どこかで、カート・コバーンが言っていたのをうろ覚えに覚えている。あるときテレビでピート・タウンゼントのライブを観て、そもそもザ・フーなんか好きじゃなかったし、もう大した曲を書いているわけでもないのに、タウンゼントのやたらに元気なパフォーマンスを見て、不思議な感じがしたと。それを彼は、必ずしも吐き捨てるように言ったのではなかった。
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「大学院基礎演習」の二番目のテキストは、マックス・ウェーバーの名高い短編「世界宗教の経済倫理・中間考察」。ここでウェーバーは、なぜ宗教(プロテスタンティズム)だけが資本主義を生みだす原動力になったのかという例の問いを、戦争、性といった、人間を突き動かす他の要因、いわば宗教のライバル候補との対比において論じている。
その白眉は性という不可解な力をめぐる深く鋭い洞察だ。ウェーバーがフロイトを高く評価しつつも批判し、同時代の「性の解放」運動にも微妙な距離をもっていたことは、上山安敏『神話と科学』等を通じてよく知られるようになっていると思うが、単なる「堅物」ではない洞察力あふれる人間ウェーバー像を念頭において読むと、「中間考察」における性をめぐる叙述はより一層の迫力を帯びて感じられるようになる。 そうしたウェーバー像を描き挙げるのに最も功績のあった立役者マーティン・グリーンの『リヒトホーフェン姉妹』には、こんなエピソードが出てくる。ウェーバーは「中間考察」を何度も書き直し、「そのたびごとに性的および美的経験について、より詳しく、より共感をもって述べられているのがわかる」(邦訳240-241ページ)。バウムガルテンは、この拡大の歴史が、 ちなみに「エルゼ」とは、グリーンの本の題名になっている、同時代のドイツの知的世界に独特の存在感を発揮したリヒトホーフェン姉妹の一人、美しく鋭敏なエルゼ・ヤッフェのことである。 ウェーバーはとにかく本人の文章の密度が凄いので、わからないことが出てきてもとにかくその中に身を投げ出すのがいちばん。お行儀の良い概説書では、その魅力は消えてしまう。まずは邦訳もこなれた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読むのがいいでしょう。同時代の知的空気を味わいたい人には、上山、グリーンの前掲書。入門書としては、ウェーバーが何と戦おうとしたかに焦点を絞った山之内靖のものが僕は好きで、繰り返し読んでも飽きない。山之内流読解の源流といってもよい、K・レーヴィット『ウェーバーとマルクス』は、いまなお迫力のある論文。
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今年は大学院の「基礎演習」という科目をもっていて、院生たちとともに社会学(およびその隣接領域)の古典・準古典をいくつか拾い読みしていく。そういうわけで、最初のテキストにえらんだのは、あまりにもオーソドックスに、これ。
19世紀ヨーロッパの名著の多くにもいえるけど、論述をきれいに整理せず(著者本人としてはせいいっぱいやっているつもりなんだろうけど)、思考のうねりをそのまま文章化したような叙述がすばらしい。あっちへ行ったり来たり、留保つけまくり、ほとんど同じ文章が何度も何度も繰り返される。でもそれは、いまだなき一個の学問分野、言い換えると一個の新たな対象を画定しようという、とんでもない野心の反映なのだ。その対象とは、もちろん「社会」という得体の知れない何かであり、それと相関する限りにおける、「人間」という不可思議な実在である。 『自殺論』を読むために、最近の研究書も読んどくかということで、まず手にとったのがこれ。
僕より6歳ほど若い著者の、さらに4年前の博士論文が元になった本だから、著者34歳前後の作品か。トクヴィルとデュルケームという、言われてみれば並べて論じられることの少ない二人の巨星を、「神が失墜した世界のなかで、人の生に意味を与えるものは何か」「みんな同じ人間などというお題目を、なぜ信じられるのか」という根源的な問いと格闘した思想家としてつなぐ、その鋭利な問題意識とストレートな議論の仕方に、少々たじろぎつつも感銘を受けた。僕がアーレント『人間の条件』から受け取った「みんな同じ人間たちの均質な社会」という近代像を、よりモノグラフィックにきちんと跡づけた作業ともいえる。 「みんな同じ人間」という観念を明示的に〈疑う〉のは、あまりにも危険な所作だろうか? しかし、ただ「人間」を繰り返すだけでは何も進められないところまで僕らがたどりついてしまっていることは、それをポストモダンと呼ぼうが呼ぶまいが、それとして否定しようがないではないか。「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いは、やはり最高に素朴な問いでありうるのだ(実際にそういうことを口にするやつがどういうやつかはまた別の話)。だから、フーコーの「人間の死」は空疎なレトリックなどではない。「幸福」という最高善こそがまさしく「管理」の相関物であること、もしかしたらそうでしかありえないこと、それこそがフーコーの剔抉した、というかアーレントがもっと直裁に何度も問題化したことだったはずだ。「管理」「監視」「権力」といった言葉を悪の代名詞として使う習慣をやめないと、かれらの問いは見えないのだが、これがそんなにたやすいことではないのは周知の通り。だから、あれほど大衆を軽蔑したアーレントも、「人間の死」を高らかに宣言したフーコーさえも、いつのまにか「悪い権力者をやっつけろ!」的フォーマットに収まる「いいひと」みたいな雰囲気に包まれてしまう。 人を最も幸福にする権力こそが最もやばいのだ。フーコーさんの言っていたことを素直に読めば、そういう無茶苦茶なまでに身も蓋もない「真理」であることはほとんど自明じゃないだろうか。実は僕はフーコーをそんなに崇めてはいない。かれよりも、たとえばフロイトのほうが思想家としての格ははるかに上だろうと思っているのだが、それでもフーコーさんが何だか「いいひと」みたいに受けいれられるのはちがうだろう、と言いたくなることがたまにある。 「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いを正面から肯定した著者は、次なる標的としてベルグソン研究に進んでいるらしい。その展開に期待しつつ、さらにアーレントやフーコーの位置づけについても教示を乞いたいと思った。
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立木著によると、フロイトの「生の欲動/死の欲動」概念については、これ↓(原著は仏語)がメルクマール的な研究だということだったので、猛スピードで斜め読みしてみた。
ラプランシュの主張は、生の欲動(エロス)にそれとは別種の死の欲動(タナトス)が対立するのではなく、心的エネルギーにはリビードしかない、それがエロスないし死の欲動として現象する、そしてセクシュアリティは死の欲動の側に属する、といったところ。結論部分をざっと試訳してみる。
まだよくわからんけど、〈セクシュアリティとエロスはまったく別物、むしろ相対立するもの〉という見方は、フロイトを読んでいるとそうとしか読めない議論に出くわすわけだが、専門家的にもそう読めるのね、ということを知っただけでも収穫。ちなみに、この点について、ジェシカ・ベンジャミンは次のようにコメントしている。
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FC2ブログは、1ヶ月更新しないと、勝手に広告がエントリーに侵入してくるんですね。知らなかった。とっくに終わっていなければならない原稿二つ、毎日呻吟しているのだが、遅々として完成せず。。。そのうちの一つは、どうしてもフロイトのなぞりに終始してしまって、まだ誰も言えていないような要素をわずかでも入れるという最低限のことが全然できないのだ……。
最近読んで、考える刺激になった本はこれ。
精神分析の高級な理論書としては、「あえて理解を求めない(=実は自分もわかってない?)」的な臭みがたいへん少ないのがよい。たとえば、身体論の章では、「〈精神〉の分析なのに、どうして〈身体〉がかかわるの?」という、非常に基本的な問いを立てるところから考察を始める。その後の議論も、あくまで「精神分析の内部にいる私たち」(p.193)というスタンスで進められていくわりには、「トーゼン知ってるでしょ、説明しないよ(=実はできないよ?)」という身振りは極力抑えられていて、話の筋は十分明晰(それでもやはり、ところどころではぐらかされる感はあるけれど)。とりわけ第7章「死の欲動についてフロイトはなにを語ったか―タナトス問題系の構築に向けて」における攻撃性についての話は勉強になった。道徳は攻撃性(←死の欲動)に由来する。したがって、道徳にはそもそも暴力を止める権能はない……。 全体として、これ↓を読むときの参考書として好適。
しかし、ようやく最近実感できるようになってきたけど、ラカンのフロイト読解というのはしばしば牽強付会すぎて、現代国語的にはムリムリの展開が目立つ。でも結果的に興味深い理論的含意が生じるから、なんとか許されるのですな。例えば、「部分欲動としての性はけっして統合されきらない」というあたり。フロイトが、「自我が介入する前の部分欲動の水準では、愛憎の「憎」の面が位置づけられない」と言って、「だから愛と憎しみは部分欲動が性器体制に統合された後の話なんだ」ともっていく(「欲動とその運命」)ところを、ラカンさんは強引に「部分欲動は統合され得ない、〈全体〉は〈部分〉の上ではなく傍らにある」という話に展開する。これを受けて、立木氏は人間における「身体」の非全体性・非完結性を言う。自己身体の全体像が、鏡像段階を通じて得られるイマジナリーなものであるという例の議論ともつじつまが合うスリリングなオハナシで、それはよいのだが、でもフロイトの論文そのものの読解としてはあまりにゴーマンであることは変わらない。うーむ、自分はこう考えるのですといえばいいところを、なぜ「フロイトがこういっているのを、あんたらはわかってない」という説教にせねばならんのか、ということですな。ジジェクはこの手の「教条主義」が思考のブレイクスルーには前提として必要なんだという趣旨のことを言っていたはずだが、しかしこうまで見え見えの「その手」にどうして多くの人たちが素直に従ってしまうのか、やはりかなり気持ちの悪いことではある。
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フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学 posted with amazlet on 07.11.28 須藤 訓任 藤野 寛 岩波書店 (2006/11) 売り上げランキング: 145536 種と個との関係をめぐって、「集合的無意識」といったベタベタな概念で個と種の対立そのものをないことにしてしまうことなく、両者の対立点を見据えつつ、なお個の心(反復強迫)からそれを必然的なものとする種の歴史(=進化史)へと突き抜けるフロイト先生。何度読んでも、驚き呆れつつ感嘆させられずにはいない、驀進する思考(≒大法螺)の迫力と、それによってもたらされる人間洞察のキレに惚れ惚れする。
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福沢諭吉の真実 (文春新書) posted with amazlet on 07.11.05 平山 洋 文藝春秋 (2004/08) 売り上げランキング: 192142 おすすめ度の平均: ![]() 『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』も併せて読むべき 本書の「完全版」は出版されるべき 福沢諭吉のイメージが変わる!たいへん面白かった。『時事新報』のテキスト・クリティークを通じて、「度し難い帝国主義者・福澤諭吉」という近年の(一部の)イメージを払拭していこうとする著者の手さばきには十分な説得力がある。もちろん、ここでの指摘をふまえた上で、福澤の思想の内在的検討に進んだときに、著者が「自由主義者・福澤」という別の一面化に傾斜しているという可能性はあるだろう。そこでは僕もかつて素描した「優生思想」の問題もクローズアップされてくる。その線でいうと、福澤が最も高く買っていた弟子が、『日本人種改良論』(1884年)の高橋義雄だったというのも興味深かった。 |
フリーターにとって「自由」とは何か posted with amazlet on 07.11.05 杉田 俊介 人文書院 (2005/10) 売り上げランキング: 144864 刊行から2年経ったが、いわゆる「格差」をめぐって考え、行動するために、つねに携えるべき一冊でありつづけていると思った。大事なことを全て、一挙に言い切ろうとする人に特有の、振れ幅の大きい文体だが、意外なまでに堅固な「客観的」状況分析が土台にある。それゆえに、「ぼくら」という一人称の下に叫び、絞り出される、連帯への呼びかけが痛切に突き刺さる。他者への想像力と〈敵対者〉への怒りは、つねに一体でなければならない。 |


















































『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』も併せて読むべき
福沢諭吉のイメージが変わる!