きのうは午前中に町田市でお仕事、午後は帰宅途中の書店で平積みになっていた二冊をためらいなく購入し、夜まで繰り返し読んだ。
そして、この二作品を一日で立てつづけに読むのは、疲れるのでやめたほうがよいと思った……。 それはともかく、『鈴木先生』はついに『掃除当番』のネタ(というか別の本として出版されている短編作品ほぼそのものがまるごと)が投入され、「教師から特に気を遣われるべき<事情>のない普通の生徒の底知れぬ苦悩」が抉り出される。そこを20分ぐらい息を止めて読み通せば、「小川家の家庭訪問」という楽しいシークエンスも惜しみなく繰り出されるのだが、しかし後半の「夏祭り」で起きたある事件をきっかけに、次の巻ではまたしても緊迫の展開になることが示唆され……巻末の煽り文句では「『カラマーゾフの兄弟』におけるミーチャ裁判に匹敵する」おそるべき状況が鈴木に襲いかかるとのこと……。 『この世界の片隅に』の待望の続刊は、昨日から今日にかけての26時間ほどのあいだに、いったい何回読み返しただろうか。とりわけ、つかのまの休日にふらりと呉の北條家にやってきた水原哲と鈴との、つかのまの邂逅――柔らかいクリームをスプーンで軽く、さくっと掬うように、虚を突いて胸をえぐる、その切なくも物狂おしいエロスは、納屋の二階での一夜を描く86ページの出来事において極まる。そして時はもう容赦もせず昭和20年に入るのである。 |
切り絵調の表紙がさわやかにカワイイ第7巻。 ヒトが景色を見て美しいと思い、感動さえするのはなぜなのだろう、とずっと不思議だった。とりわけ山岳、それも急峻な雪山こそが最も、かぎりなく美しく感じられるのはなぜなのか。その感覚に、いったいどんな究極要因が、すなわち進化的ベネフィットがあるのか。景色の美しさに茫然とする感性に繁殖成功度を向上させる要素なんかあるだろうか。むしろ逆な気さえするのだが。 ともあれ、山は美しい。たとえ、つい数時間前にすれちがったばかりの人びとが、そこで無残な焼死体となっているのを見出さねばならないとしても。この巻では、そんな直球勝負の話が心に残った。 |
シンゴの誠実に打たれたショウゴが覚醒し、メグは間一髪のところで救出される。"ヤンキー狩り"こと神代ユウはボコボコにされるが、大怪我はなし。龍は意識不明、八木も(精神を)壊され、鉄もイザワマサキの敵ではなかった。そしてキングだけが残る。次の巻が最終巻だという。あまりにも自省的で老成した少年たちによる甘美な暴力の宴ももう終わるのか。とても、とても寂しい。
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かつて山本直樹の『ありがとう』を僕は読み進められなかった。しょっぱなから延々描かれる性暴力が耐えがたく不快で、比喩でなく吐き気を押さえられなかったからだ。もちろんこれは作家に対する賛辞ではある。山本直樹ほどに人間のおぞましいものを深く、しかも無造作というかナチュラルな手つきで読者の眼前にごろりと投げ出してみせることのできるマンガ家はいない。そこにはノスタルジーやロマンティシズムのかけらさえなかった。だから、(小林よしのりが、エロを描いてもよいと勝手に許可を与えたマンガ家のなかに、岡崎京子と並んで山本の名が当然のごとく挙がっていたとしても)、そこにはいわゆるエロスさえあるのかどうか、怪しいといわざるをえない。(懐かしさと結びついていないセックスに、いったいどんなエロスがあるというのか。) 連合赤軍事件を冷徹なドキュメンタリー調のマンガに仕立て上げた『レッド』には、いまのところ、『ありがとう』ほどの〈不気味なもの〉は感じられない。なぜだろう。本のカバーに書かれた、また山本自身もインタビューで語っているような、「普通の真面目な青年たちがなぜあのような狂気にまで暴走してしまったのか」とまとめられるようなテーマの立て方は山本には似合っていない。なぜなら、人間がこの上なくくだらない欲望によって、この上なくおぞましいやり方で他人を殺すなどということは、山本直樹にとってはただのありふれた現実にすぎないはずだからだ。いや、たぶん、まさにそれこそがこの作品の真の「テーマ」であって、先のような「なぜ」はただのタテマエなのだろう。ほとんど登場人物の紹介だけで終わる第1巻は、やがて閉ざされた山中で繰り広げられるはずの惨劇を丹念に、しかし乾いた筆致で描き尽くすための準備作業にすぎないのにちがいない。そこではきっと、またしても僕が文字通り目を背けざるを得ないようなおぞましい光景が、一片の愛もロマンもなく、精密に描かれるにちがいない。それは、やはり連合赤軍をひとつのモチーフとし、その歴史的「総括」を果たそうとした大江健三郎『懐かしい年への手紙』の強度と張り合うにたる、しかしまったく異なる次元での――非歴史的「総括」?――連合赤軍論になるだろうか。
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酒席で盛り上がった親どうしが勝手に決めた二人の奇妙に穏やかな結婚生活。というモチーフは、現在進行中の最新作:
とほとんど同じだし、生まれつきぽーっとした女子が主人公である点も共通だが、『この世界〜』では夫がしっかりした人物なのに対し、『長い道』では金欠の女好きという点がちがっていて、その分、描かれる結婚生活の奇妙な存在感がより強い。それは、日常性と呼ぶにはいくらなんでも妄想めいていて(かれらはガスや水道が止められてもいがみあいもせず、いつも「いやーまいったまいった(笑)」という顔で暮らしつづけるのだ)、しかし絵柄のかわいらしさに引っぱられるようにして繰り返し読むうちに、なぜかそのほうが本当のリアリティであるように思わされてしまうのだ。 この人はあなどれない。あの超名作『夕凪の街 桜の国』(何度読んでも、途中から滂沱の涙でページが見えない)を生み出した確信のずぶとい厚みを見透かすことは、まだできない。しばらくは、『この世界の片隅に』の展開を、大いなる哀しみの予感に打ち震えながら、見守ることにしよう。
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ああ、また山に行きたい。しかし、今いきなり北アルプスなんかに行ったら、典型的な〈若いときと同じつもりで山に入ってあっさり遭難する無思慮なオヤジ〉に100パーセントなることぐらいはわかっている。カラダを鍛えようとは思うんだけど、最近は腰痛気味で、日常生活には支障はないのだけど、腹筋や腕立てをしようとするとズキ!と痛むのだ。おかげで下腹あたりがどんどんメタボってきた。
いま思えば、初冬の谷川岳を包んでいたうっすらと蒼い雪は、快晴の青空を映していたんだな。稜線から見下ろした一の倉沢は恐るべき深淵で、僕のようなアマ野郎にはまるで別世界だった。これまでに見た、いちばん美しい風景。
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第5巻では「少し息切れ気味かな?」と思ったが、第6巻はなかなかいいハナシばかり。僕は〈人間が生み出した最も強いものは何か?〉という問いに、ひとりの原始人との交わりから答える第2話が好きだ。とはいえ山下和美は微妙に変わり続けている。後期(まだ続いているが)『柳沢教授』と同じように、『不思議な少年』の最初の方は〈文句ばかり言いながら現実から眼を背け、気に入らないことは全部他人のせいにする卑小な庶民/大衆〉に対する痛罵が爽快だったが、そうした鋭角さをまったく捨てるわけではないものの、最近の『少年』は、そうした卑小さに拮抗する崇高さを〈あらかじめ選ばれた英雄〉だけでなく、〈名もなき衆生〉のなかに見出そうとすることが目立ってきた。その結果、『柳沢教授』の初期に近い生暖かさが漂いだしてきた。本巻の最後に収められた、愛すべき田舎者「ムメキク」の話がその典型だ。ハードでクールな『少年』を求める向きには、それは後退とも感じられるかもしれないけれど、僕はそれでよかったと思う。少年は人間からの影響を受けて変わったのだ。「寄生獣」でさえ、人間たるシンイチに作用を及ぼしつつ、自分もいくらかは反作用で変化したではないか。
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どうにかこうにか、仕事がひと(一瞬)段落。そういうわけで、遅まきながら、
『西洋骨董洋菓子店』の繊細さにも唸らされたけど、『大奥』は生きることの傷をさらに深く包み込んで、しかも〈ページをめくらずにはいられない〉堂々たるドラマに仕立て上げている。男女逆転という伝統の基本ワザを不可欠の土台とし、その設定でしか描きえないものを描くことで、ジェンダーの〈手前〉に突き抜ける。フェミニズムがなければありえなかった表現の極北であり、したがって、最も鋭利で手強いフェミニズム批判に届いている。同じことだが、全編を満たすのは、男への愛であり批評であり、女への愛であり批評であり、そして男女を超えたものへの敬意と断念である。 このテンションのまま展開していけば、手塚治虫『人間ども集まれ!』、永井豪『デビルマン』、楳図かずお『漂流教室』、萩尾望都『ポーの一族』、大島弓子の80年代の短編群、安達哲『さくらの唄』、岩明均『寄生獣』、ついでに柳沢きみお『妻をめとらば』等と同列に並ぶ、漫画史上の名作となるだろう。もっとも、作者のやや強すぎる含羞癖は、そのような完成をどこかで拒むかもしれないが。
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はあーー疲れた……。それどころじゃないのに、ついつい買ってしまった、読んでしまった(もう3回も)。小川あるいは「カミサマ」あるいは「のんのんさま」をめぐる鈴木と続木の熱い契り。ナマでやっちゃった河辺と竹地に、「相手にもナマでやる気がないうちは、女性とつきあわない」主義(であることが明かされるのだ)鈴木先生がいかなる「指導」を繰り出すのか?! そして麻美さんとの関係は急展開……。第4巻は、鈴木先生を過剰なハイテンションで走らせる作者自身が少々暴走気味では?という疑念を感じさせるシークエンスもあるが、これだけの異物感はやっぱりそうそう味わえるもんじゃない。すんなり入ってこない「物語」の物質性を求めよ! でもやっぱり疲れたので、その後は手練れが描く江戸の人情話でなごみました。
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手塚治虫「戦争漫画」傑作選 (2) (祥伝社新書 (087)) posted with amazlet on 07.11.07 手塚 治虫 祥伝社 (2007/08) 売り上げランキング: 21643 人間を溶かす薬品の研究に従事する二人の研究者の時空を越えた邂逅と悲劇を描く「溶けた男」(『ザ・クレーター』中の一話)、人間の恐怖心を取り除き殺人マシーンに変貌させる食品がもたらす惨劇「イエロー・ダスト」、そして空襲で死んだ小学校の同級生たちと再会する主人公の哀しみが胸を打つ「カノン」が本書の白眉だろう。個人的には既読の作品が多かったけれど、このようなアンソロジーで読むことで、手塚の異様なまでに激越な〈戦争への怒り〉が改めて剥き出しに迫ってきた。 |
近所のブックオフで拾った、とりみきの対談集『マンガ家のひみつ』を読んでいて、どうしても『ハレンチ学園』が読みたくなり、アマゾンで探してみたところ、ちょうど新装版が復刊中であった。オレにとって『ハレンチ学園』といえば「児島美ゆき」であり、いままで原作を読んだことはなかったのだ。早速届いた3巻(全6巻らしい)までを、恐る恐る読み始めたところ……。
これもまた「68年」が生みだした徒花なのだろうか? もしかしたら、その最強の実例では? ともあれ、あの時代が永井豪という紙一重の天才を得て、その希有な条件の下ではじめて生みだされ得た、錯乱・狂乱のマンガである。ある意味で、あの「ススムちゃん大ショック」よりはるかにヤバイ漫画なのではないだろうか。こんなものを少年誌が載せられて、あまつさえテレビドラマ化されていたとは、やはりあの時代はあなどれない。この作品を非難したPTAはまったく正しかった。しかし、永井豪はもっと正しかった。その証拠に(?)、『ハレンチ学園』も含めて、観るテレビ番組に対する親からの規制を一切受けないで育ったオレも、別に人様を殺めるでもなく、汚職に手を染めるでもなく、それなりに堅実で平凡な大人に育ったよ。 |
上昇し続けるテンション、深まり続ける苦悩、しかし読まずにはいられない、そしてぐったりと疲れ果てる。鈴木先生の闘いは、あの東堂太郎(『神聖喜劇』)のそれよりもさらに張り詰めたものではないのか? むしろ、最終的に戦争そのものの周縁にとどまった(そしてそこからしか見えないものを凝視した)東堂に対して、鈴木先生のいる場所はほとんど比喩を超えて「戦場」そのものではないのか?(爆笑と外傷が背中合わせで押し寄せてくる点も、『神聖喜劇』と『鈴木先生』との共通項だろう)。 かつてウィリアム・ギブスン―岡崎京子が見た「平坦な戦場」はどこに言ったのだろう?
いつか、中村対小川という、考えるだけで目を背け、逃げ出したくなるような、逃げ場のない対決が、起こってしまうのだろうか? それまで僕も心臓をばくばくさせながら読み続けるしかない……。ホント疲れる。それでもオレは、最後までついていくぜ! |
昨日はRapp教授のセミナーで疲れたのに、夜、ブロックバスターから届いていた『アメリカン・ビューティ』(面白い! しかし身につまされる……)を観てしまったので寝るのが遅くなり、当然今朝も遅起き。クリーニング屋に行ったり、必需品であるオレンジ・ジュースの安いスーパーまで出かけたりしているうちに昼になり、一息入れてから久しぶりにブックオフNY店に行く。お目当ての『金魚屋古書店』(芳崎せいむ、小学館)の第1巻と第3巻があったので購入、同じ通りの並びにある日系カフェ&ベイカリー「ZAIYA」に行って、抹茶プリンを食べ、紅茶をすすりながら早速読む。至福。
『金魚屋古書店出納帳』はいったい何回読み返しただろう。大げさでなく、数え切れないほどだ。マンガ専門古書店という舞台は画期的だけど、内容は言うなれば上質の人情話で、どうということはないと言えばどうということもない。けれども、これがもう、最初に本屋の店先で立ち読みしていたときから泣きそうで、家で寝転がりながら読んでも、いつも泣きそうになる。この「泣きそう」というところが素晴らしいので、わんわん泣いてしまうわけではないのだ(もちろんそういうマンガも素敵なのだが)。最近とみに涙腺が弱まっていることを差し引いて考えてもも、このマンガの繊細な情感はただごとではない。絵柄もきれいで、丁寧だし、言うことなし。何より素敵なのは、この作者はマンガをこよなく愛していても、マンガを読んでマンガを縮小再生産しているのではなくて、マンガを自分から世界への通路として愛していると感じられること。 それにしても、ZAIYAさんではいつも食パンやあんパンを買ってはいるものの、ケーキ類を食べるのは初めてだったけど、抹茶プリンはとってもおいしかった〜。やはりスイーツはいいねえ。その勢いで(?)、食べた後にもう一度ブックオフに寄って、『愛のアランフェス』第1巻を立ち読みしてしまったよ。僕の少女マンガ歴原点にして原典であるだけでなく、中学生時代から不変の少女趣味&ロマン主義的感性の植え付けてくれてしまった名作。あの頃僕は、たぶん黒川貢になりたかったのさ。 |
ジャマイカ系の黒人の女の子に、「日本の若者たちは希望を失っていて、引きこもりとかニートとかが深刻な問題になっている」と話したら、ほとんどポカンと口を開けていた。世界一裕福なはずの人々がなぜそんなことになるのか、まったくわからないという。僕にも本当のところはわからない。もちろん、雇用問題とか、突出を嫌う日本文化とかについて、しどろもどろの英語で説明を試みてはみたものの、それだけではないような気もする。実際、明日の飯にも困るという人間の割合は、アメリカに比べればはるかに少ないはずだ。ニューヨーク市では6世帯に1世帯が十分に食料を購入できていないという(ニューヨーク市アゲンスト・ハンガー連合がアメリカ農務省のデータを元に分析した結果)。街をぶらぶら歩いているだけで、そんな数字も納得できると思える光景を目にすることはたやすい。それに比べれば、誰がどう見たって日本の若者たちは裕福だ。いわゆるニートだって、世帯単位で見れば一定程度裕福だから成り立つのである(もちろんそうではない例もあり、悲惨な状況であることは知っている)。誰が言っていたのか、すでに「最も豊かなとき」は終わってしまったという感覚が蔓延しているからなのだろうか。それとも、それは単なる気分で、経済がさらに好転すれば事態は変わるのだろうか。その可能性もあるだろうが、よほどの土台上部構造決定論をとるのでないかぎり、そう単純には行かないだろう。
僕にも本当のところはわからない。でも、実を言えば、少しはわかるような気もしている。僕は、自分が堅実な職場に就職をして、それなりにきちんと勤めて、物書きの仕事も地味に続けているということが、ときどき朧気な夢のように思える。「夢」というのは、Dreams come true.というときのバラ色の夢ではなくて、なんだか本当ではないような気がするという意味のほうだ。僕はもともと勤勉な人間ではないし、放っておいても学者になるというようなタイプでもない。ほんとうはテレビを見ながら家でゴロゴロしているのが性に合っているし、だいたい人間の世界というか、政治も思想もそんなに好きじゃない。小中高と一貫していちばん成績が悪い科目も社会科、特に歴史だった。まるで興味がなかったのだ(強いて言えば、世界史の最初のほう、アウストラロピテクスあたりのところだけは好きだった)。だいたい人類なんて滅びるのが早いか遅いかの違いしかないのだし、たとえ世界中に醜い汚職や殺人や戦争が充満していて、罪のない何億人もの人間が苦しみにあえぐ一方、一握りの汚い連中があぶく銭を握りしめていても、好きな女の子が自分のことを好きになってくれれば僕は生きていてよかったと思うだろうし、反対にたとえ理想社会で何不自由なく暮らせたとしても、思いが叶わなければ死んでしまいたいと思うかも知れない。たぶん僕だけではなく、至福千年期の街の広場には、夕刻になると人々が集い、生きることの苦悩について、叶わなかった大切な思いについて、静かに語り合うだろう。そんな非生産的なことばかりぼんやり考えてきた感傷的な人間である僕もまた、いいトシをして、まだ十分には大人になりきれていないのかもしれないと思うことがある。もちろん悪い意味で。大人になれない、ということには、「いい意味で」と付ける余地はありえない。けれども、そうだと知っていながら、なんで大人になんかならなきゃいけないのかと、どうしても思ってしまうことがある。 どうしようもなく優しい二十一世紀初頭!の若者たちを描いた、浅野いにおの『素晴らしい世界』(1・2)と『ソラニン』(1・2)を読みながら、そんなことを久しぶりにぼんやりと考えた。浅野いにおのまんがは、あまり多くの人々の目に触れさせずに隠しておきたいような親密な温度に守られているが、しかしそれはやっぱり無理だよな、と思わせるメジャーな強度が漲っている。ただし『ソラニン』でもまだそれは全面展開されてはいない。もしかすると、あえてそうはしないという自覚的な意志があるのか。そうだとしたら、かつて松本大洋が1990年代において瞬間的にそうだったように、あるいはそれ以上の密度で、浅野いにおは2000年代のニッポンを密かに代表する作家になるだろう。なんてったって、ロックバンドを描くマンガはいつだって素敵なんだ。 |
「読書日記」なのに、あんまり本のことを書いていないのは、NYに来てから昼間読んでいるのは生殖医療や遺伝医療、遺伝子工学と社会といった分野の(しかも英語の)論文ばかりだから。この日記は基本的に大学生向けに書いている(つもり)ので、そんなのを逐一紹介してもあんまり意味がない。とはいえ、いろいろ面白い本もあるので、少しずつは紹介していこうとは思いますが、日記のメインにはなりえない。
そういうわけで、ここで触れるのことができる本は、夜寝る前に読むまんがのことが多くなる。日曜の昼間に散歩がてら出かけるブックオフで仕入れてくるのだ。このあいだ「かっこいい不良」のことを書いたきっかけは、森慎二『ホーリーランド』を読んだから。いじめられて世をはかなんでいたひ弱な少年がなぜか少しずつ喧嘩に強くなり、ストリート・ファイターとして街の不良どもに受け入れられ、成長していくというシンプルな話なのだが、飽くことなく繰り返される格闘シーンの迫力と精緻な解説に引き込まれる。「闘い」が好きな人なら文句なく夢中になるまんがだろう。登場人物たちがみんな高校生なのに異様に(とりわけ現在の基準から見れば)大人びているのも王道。「お蝶夫人」などにも言えることだが、まんがに登場する高校生は「こんな高校生いるかよー」というぐらいで正しいのである。なぜなら高校一年生ぐらいまでは、二、三年の年長者と自分との距離がものすごく大きく感じられるからだ。その時点での感覚を忠実に(現象学的に?)描き出せば、お蝶夫人や、『ホーリーランド』の伊沢や土屋のように、あまりにも大人びた高校生がいてもおかしくはないのだ。 そして先週仕入れたのは、2003年度「星雲賞」コミック部門受賞作にして稲葉振一郎氏が「千年に一冊」の名著『オタクの遺伝子』で克明に論じている長谷川裕一『クロノアイズ』。この人のまんがは、僕にはあまりにも画面がごちゃごちゃしていて読みにくいなあと思ったまま、なんとなくずっと敬遠していたのだ。しかし『ホーリーランド』の単行本を全部読んでしまい、さらに南Q太『スクナヒコナ』も3巻まで買って読んで、なかなか4巻がお店に現れないので、1ドルコーナーにあった『クロノアイズ』全6巻を大人買い(といっても6ドルですが)して読んだのである。 いやーすいません。これまで読んでいなかったのは不覚の限りです。僕が現役のSF読みをすっかり降りてしまったのはずっと昔のこととはいえ、それでも話題作だけはそれなりに拾っていたのだけど、これは不覚だった。やはり偏見、食わず嫌いはいけない。そういえば俺は高校生になるまで刺身が食えなくて、これではいけないと一念発起して理性で食えるようにしたのだった。それはともかく、この作品は最高ですね。何か新しいものがあるかと言われると困る。タイムトラベル、タイムパラドックス、平行宇宙(パラレルワールド)という道具立ては基本中の基本そのままだし、出てくるガジェットはモビルスーツものや『ドラえもん』にも類似品がいっぱいあるもの。しかしそれらが次から次へとぶちまけられる濃密な展開、しかもどんなエピソードも「時間改変是か非か」という極太のメインテーマにきちんと絡んでいく職人技にはほれぼれする。「過去の修復」をめぐる禍々しい設定の哲学的刺激もかなりのもので、アメリカの分析系哲学者が読んだら早速例として使いそうなアイデアに満ちている。しかし全体の雰囲気としては、エドモンド・ハミルトンをハイパー化したかのような、古き良き懐かしさも感じられる。ちょっとフレッド・セイバーヘイゲンに通じなくもないかな。 というわけで、今日はついつい続編の『クロノアイズ・グランサー』全3巻を一気買い、そして一気読みしてしまった。こちらは最初、やっぱり続編だからテンション落ちたかな〜という感じがしたのだが、ちゃんと大ネタを繰り出してくれていた。ただし、その扱いには疑問がある。もちろん、その内容はネタバレになるので書かないが、藤子F不二雄が自身の傑作「サンプルAとB」の結末(ロミオとジュリエットを蘇生させて、生きながらえさせたら、二人は愛を全うできたか?という思考実験)について、後にみずから「あれは甘かった」と評したときに思っていただろうものと同じ「甘さ」を、僕は感じた。抽象的に言うと、すべての善意が世界に災厄をもたらすだけであることを「知った」(「思った」ではなく。なぜならここでは現在と未来は実際に出会うことができるのだから)ときに、人はいかに先へ進めるかという、社会主義崩壊後の世界に生きる僕らにとって、真剣に考えるなら一歩も身動きできなくなるほどの問いがここでは提出されているのに、著者はそれを最終的には直視しなかったように思えたのだ。もっともこれは高速で一読した直後の感想にすぎない。 |





































中の宇宙外の宇宙
いつまでも心を震わせ続ける、優しく痛々しい作品たち








