噫、とうとう全部見終わってしまった。出演者のひとり・ともさかりえさんも「奇跡のようなドラマだった」と述懐する傑作。少女趣味全面展開にしてハードボイルド、知的にして温かな笑いに満ちた日々のドラマ――それを、ゆめゆめ「日常」だの「生活者」だのという疎外論オヤジ的手垢に塗れた用語でしばりあげることなかれ。 市川実日子も、小林聡美も、ともさかりえも、高橋克己も、金子貴俊も、誰もが素晴らしい。浅岡ルリ子の大学教授は、テレビドラマで初めて本物の教授に見える人物像をつくりあげていた。そしてドラマに厳しさの感覚をにじませた小泉今日子は、歳をとってからのほうが、アイドル時代の何千倍も魅力的だ(というか、アイドル時代のキョンキョンは、僕にはどこがいいのかわからなかったのだけれど)。 木皿泉という人(男女二人のチームらしいが)の脚本の豊かさと鋭さには心地よく脱帽。われわれがなすべきなのは、なすべきことだ。このありふれたトートロジーの循環する軌道のなかに世界を、空虚ではなく細部を備えた本物の世界を封じ込め、こんなふうに軽やかな風吹き渡るビジョンとして提示することができるとは。他にはこんなの↓も書いているようなので、ぜひ観てみたい。 「すいかのお墓」に、花束は要らないのである。
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最近買ったもの。
はじめてのブルーレイディスク。でも、まだ観てない。PS3(旧モデル、SACDがかかるやつ)で観る(夏休み中には)。 そして、まだ届いてないけど、
ツタヤDISCASで借りてちまちま観てのだけど、amazonで安くなっていたのを見て、もうたまらず、ぽちっと。 すでにオレのなかでは『2001年宇宙の旅』『ブレードランナー』『風の谷のナウシカ』等々に匹敵する――まったく別の――名作。……オレたち女子の〈ユートピア〉はここにあったのだ。 市川実和子に負けないくらい素敵な市川実日子に……何を贈ればいいのだろう。薔薇、じゃないし、拍手、じゃせこいし、乾杯、もなんかちがう。どうしよう。 |
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![]() 前から行こう行こうと思っていた、「怪獣と美術――成田亨の造形芸術とその後の怪獣美術」展(三鷹市美術ギャラリー)をようやく見に行くことができた。いやー良かったよ。紹介ページに出ているジャミラもいいけど、ザラブ星人の「宇宙感」が圧巻。『ウルトラマン』に登場した最終的なザラブ星人は、なんかオヤジっぽかったけど、成田さんのデザインはもうまるで何考えてるかわからない。何でもやりそうで、それもいったい何をやっているのかわからなそう。怖い。やっぱ邪悪さってのは悪ではなくて、不気味さ=得体の知れなさなんだという、考え込まされる事実を突きつけられてヒヤリとするよ。あとは、久しぶりに『突撃!ヒューマン!!』関係の絵や像が観られたのは強力にオトナ帝国だった。今月21日まで、三鷹駅のすぐそばですよ。 |
帰国間近の金曜日の夕刻、例によって何度目かのMOMAにタダで入る。常設店ではいつもパウル・クレーの部屋で長い時間を過ごす。キリコの絵の呪縛力はいつも圧倒的だ。セザンヌの絵もたくさんあるが、メルロ=ポンティが『知覚の現象学』の序文で現象学の方法について、セザンヌにも匹敵する世界への注意とかなんとか書いていたことの意味がようやくわかったのは、このあいだ日帰りでぶらぶらしに出かけたフィラデルフィアの美術館でセザンヌの人物画を観たときだった。ダリの絵はとても綺麗だけど、揺さぶられるようなものはないなあというのがいつもの感想。「泣ける」ことを原点としている僕としては、イヴ・タンギーの方が好き。エレベーターを上がってすぐのホールにかかっている超大作は、いまはアンリ・ルソーの作品で、これもすばらしいのだけれど、去年の夏に僕が最初に来たときはピカソの『アンティーブの夜釣り』だった。中学生の時から憧れていた作品を間近に見られて、本当にうれしかった。
いくつかやっている特別展も皆なかなか面白かったのだが、その中のインダストリアル・デザインの部屋に展示されていたジャガーの1963年生コンバーチブルは圧巻! 流麗という言葉しか当てはまらないボディーは、もう飛びそうで、笑っちゃうぐらい格好いい。僕はインダストリアル・デザインが大好きで、見るだけでなく、十代の頃はオーディオ製品とかクルマのデザイン画を描くのに多大な時間を費やしていた(もっと勉強しときゃよかったという気もするが)。どうも90年代以降、日本の工業製品のデザインに大きなアタリが少ないのが悲しい。それ以前、70〜80年代のヤマハのアンプやカセットデッキのデザインなんかは、いまでも見るたびに胸がうずく素晴らしさだった(僕はヤフオクでCA-2000のレストア品に高値をつけてしまいそうな誘惑と日々戦っている)。日本のオーディオ産業はその後見る影もなく衰退してしまったが、クルマはそんなことないんだから、もう少し余裕のある、美しいデザインにできないものなのだろうか。 もう一つ、現代オブジェを見てある気ながら思ったこと。MOMAで大々的に「ウルトラ展」をやらないかなあ。あの会場に、プリズマやブルトンのような抽象芸術体はもちろん、得体の知れない怪獣や宇宙人という名の異人間たち(特にキュラソ星人やユートム、ナース、ガッツ星人、ギャンゴ、ツインテール、チブルまたはクール星人、もちろんバルタン星人、ヤプール人、カネゴンなんかが立ち並んでいたら、さぞ壮観だろうなあ。その創造的な想像力に、爬虫類や昆虫の中途半端な変形にしか遭遇したことのないたいていのアメリカ人たちは衝撃を受けるだろう。まして、もしも『バロム1』の怪人たちまで並べた日には――。いや、むしろウデゲルゲやクチビルゲってのは、フツーに芸術的すぎるかな? ところで、今気づいたのですが、Atok17では「せいじん」を「星人」に変換できないんですね。ちょっとため息まじり。 |
そうだ、引っ越して最初に観た映画は、このあいだヴァージン・メガストアの安売りカゴで見つけた『ピアノ・レッスン』(原題は"Piano")だった。僕がこよなく偏愛する(変な日本語?)、手が切れるように鋭く美しく、そしてむせかえるような愛欲の夢物語。何度観ても良い。以前にNHK-BSで放送されたのを観て、録画しておいたのに、そのうちDVDを買えばいいやと思って消去したら、なんとしばらくのあいだDVDは入手不可になっていた。けしからん。しかしさっきAmazonで調べたら、いまは無事に出ているらしい。しかもリマスターされて。僕が買ったアメリカ版もリマスター版で、たしかに映像は改善されていた。ニュージーランドの浜辺にぽつんと置かれた古いピアノというあの光景は息を呑むほど綺麗だった。
いま読んでいる本は、Rayna Rapp先生のセミナーの来週のassignmentのひとつで、Annemarie Mol, The Body Multiple: Ontology in Medical Practice, Duke UP, 2003. オランダのある病院における動脈硬化に関するフィールドワークなのだが、著者は人類学者や社会学者ではなく、医学の基礎教育も受けた哲学者で、本書の叙述もエスノグラフィと現象学的分析のあわいを行くような、繊細で内省的な感触がひと味違う本だ。エスノグラフィ部分がページの上半分に、それに関連するビブリオグラフィ部分が下半分に印刷された体裁も、デリダのGlasほどではもちろんないが、たくらみのあるもの。 |
しかし部屋に籠もってばかりいてはいけないと思い、先日、久しぶりに映画館に行って話題のBABELを観た。ひと月ばかり前にもユニオン・スクエアの映画館に観に出かけたのだが、上映開始の30分も前に行ったのに、もうチケットが売り切れだったのだ。今回はアパートから歩いて12,3分のところにあるシネマ・コンプレックスで、客の入りはそこそこ、椅子もふかふかで落ち着いて観られた。
詳しい内容は上の宣伝サイトでご覧ください。出来はなかなかのもので、手応えはあったけど、アカデミー作品賞はどうかな……。4つのエピソードが、現実にはつながりながら、当事者たちにはそのつながりがまったく見えないという世界観は十分に批評的だし、特に前半で、パッケージを外れた、思いがけない異文化体験の切迫感を観客に突きつけるあたりは迫力があった。たとえば、いかにも恵まれたアメリカ人観光客がひょんなことで観光ルートを外れ、モロッコの砂漠に近い場所で暮らす人々たちのど真ん中に投げ出されたときの恐怖。あるいは、東京のろう学校の女子生徒(菊地りん子)がナンパされて、しかし、ろう者だとわかると男どもが引いていくときの疎外感。けれども、後半になると、各エピソードの質感がうまく揃っていない感じがした。特にブラピとケイト・ブランシェットのカップルがエラい目に遭う話は、二人のいかにもハリウッドな演技が少々浮いてしまっていて、あんまり入り込めない。ただ、僕が日本人で東京に住んでいるからかもしれないが、モロッコの砂漠の民の子どもたちを襲う悲劇よりも、東京の超リッチマンションにエリートの父親(役所幸司)と暮らしている少女の日常のほうが痛いのは、ああやっぱりそうだったのかという感じがした。アメリカ人の観客の反応(彼らは上映中にもかなり明瞭にリアクションをするのだ)がいちばん大きかったのも、東京のエピソードだったし、菊地りん子はアカデミーの助演女優賞をもらうような気がする。 複数の、一見なんの関係もなさそうなエピソードが見事につながっていくという形式の映画で、僕がなんといっても感銘を受けたのは、マケドニアを舞台にした『ビフォア・ザ・レイン』(ミルチョ・マンチェフスキー監督)。もう10年も前、たしか朝日新聞の映画評で秋山登が絶賛していたので観たのだ。バルカン半島の民族紛争が背景だったこと以外にはストーリーもまったく覚えておらず、映画館で観たのかテレビで放映されたのかさえ忘れてしまったが(手元にテレビを録画したVHSのテープがあるのは確かなのだが)、その鮮烈な印象だけはよく覚えている。僕のオールタイム・ベスト10に入るほどの感動だった(とはいっても、僕が観た映画の本数はせいぜい300本ぐらいしかないんだけど)。今回のBABELは、『ビフォア・ザ・レイン』の印象と比べてしまったので、少々損をさせたかもしれない。それにしても、いまこの映画のビデオもDVDも入手困難なのはけしからんよ。 |
1月26日(金)
夜通しパトカーのサイレンが唸りを上げ、ゴミ回収車の物音が轟きわたるヘルズ・キッチンのアパートから、閑静なアッパー・ウェストサイドのアパートに引っ越して、もう十日が過ぎた。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を舞台化しようとしているスティーヴ氏からサブレット(又借り)したワンベッドルームの古い部屋だが、ここは本当に静かで日当たりも良い。ただ、今日みたいに零下十度!にもなる寒い日には、ちょっと暖房が力不足で、特に勉強部屋兼寝室が少々寒い。とはいえ、全体的な快適さは引っ越し前とは比べものにならない。 テレビも大きくなったし、ようやく部屋でDVDが観られるようになった。いままではVAIOノートでしか観られなかったのだ。というわけで、まずは日本から持ってきてあった『Twilight Zone (Definitive Edition)』を晩飯ごとに1作ずつ観る。かつて中学1年生の時、金曜日の深夜1時35分からテレビでやっていた『トワイライトゾーン』(当時は『ミステリーゾーン』という邦題だったが)の強烈な印象は忘れられない。とりわけ、たぶん邦題は「人形の家」(原題はMiniature)だったと思うのだが、世間になじめない男がアンティークの小さな館の中に住む人形の女性に恋をする話は、全編に流れるモーツァルトのピアノ・ソナタ・イ長調とともに、心に焼き付いた。そのエピソードを今回改めて見直したら、歳をとった分なのか、昔にも増してしんと胸に染みわたるようだった。はじめて脚本家を確かめたところ、おー、チャールズ・ボーモントではないか! この人はシリーズのメイン作家の一人であるだけでなく、たぶんシリーズ中の最高傑作のいくつかも書いている小説家・脚本家で、たとえばPassage on the Lady Anneというエピソードは、たしか短編小説を脚本化したんじゃなかったっけな?(この本に入っている「淑女のための唄」がそうだと思うんだが、定かではない)。 この話を最初に知ったのは、故・星新一のエッセイでだったと思う。しかし、これも到底小中学生向きの話ではない。ネタバレをしたくないので詳しくは書かないが、感情生活に行き詰まった若い夫婦が、なんとか関係を改善しようとして旧式の豪華客船で長旅に出るのだが、なぜかその船の客はみな老人ばかりだった……というだけでも、ちょっとは雰囲気が伝わるのではないか。ひやりとした叙情が際だつ、やるせない佳作なのだ。 |
そうそう、以前にこの日記で推奨した映画『海辺の家』のこと。確かにいい映画でホロリとさせられるんだけど、一つだけ大きな瑕疵はあからさまなホモフォビアが仕込まれているってこと。ちゃんとストーリー展開のなかでは効いてくる設定ではあるのだが、登場人物のほぼすべてが「ほんとは良い人」として描かれるなかで、ただ一人だけ「良い人じゃない」(悪人とまでは言えないが)のがホモセクシュアルの男性である、というのは、やっぱり引っかかる。以上、思い出したので、注記しておきます。
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母に頼まれて録画しておいた木下惠介監督『楢山節考』をDVDにコピーして、確認のために軽い気持ちで見始めたら、ぐいぐい引きずりこまれて止まらず、最後まで息を呑むように観きってしまった。これほどの傑作だったとは、今まで知らずにおいたのは不徳のかぎり。今村昌平監督の新しいやつは一応観たが、あき竹城が出ていたな〜ぐらいの印象しか残っていない。それに対して木下版はすべての場面が凄まじいまでに虚構として練り上げられた映像美、物語りの運びは一瞬たりとも緩むところなく、全編に鳴り響く琵琶の音と琵琶法師の声(ですよね?)が異様な緊迫感を湛える。深沢七郎の原作のあの人を食ったような軽みこそ希薄だが、独立した映画として完璧な世界を構築している。田中絹代も凄い。昭和33年にこんな映画がつくられていたとは。
『木下惠介DVD BOX第5集』に贈られた「みでじゃ」氏の解説も参考になります。それにしても俺がガキの頃は、TVで「木下惠介アワー」を毎週観ていたなあということを思い出した。一個ずつのストーリーは覚えていないが、子供心に何となく「しん」とした感じを抱いたことは微かな記憶としてある。 |
昨夜、冬樹蛉さんの[間歇日記]世界Aの始末書で紹介されていたブログ特殊清掃「戦う男たち」(←読者を激しく選ぶ内容なので、まず「自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去まで施行する男たち」という副題を見て、意を決した人だけ訪問してください)をイッキ読みしてから眠りについたら、そのせいかどうかはわからないのだが、久しぶりに奇妙な夢をみてしまい、えらく寝覚めが悪くて、今日はなんだかぼんやりした一日になってしまった。
「戦う男たち」を読んでしみじみ感じたことを、ひとつだけ。人間てのは、液体なんだなあ、ということ。 見た夢のほうはというと、どこか山間の村のようなところで、僕を含めた何人かが(僕以外はすべて子供だったと思う)、クワガタの幼虫のような虫を2匹ずつ渡されて、食べるように言われる。僕は右の手のひらに乗せた2匹の白い幼虫を、どうしよう、やっぱり食べなきゃだめかなあ、などと思案しながら、ちょっと囓ってみたり、なめたりしつつ、どこかへ歩いてゆく。するとそのあいだに虫はだんだん大きくなり、変形して、「頭は人間の髑髏で、体はタツノオトシゴ」といった風体になってします。さすがにもう食えないと思った僕は、しかしうかつにその辺りに埋めたら叱られるかもしれないと思って途方に暮れる、というストーリー。 そんな呆けた状態で申し訳なかったのだが、午後に編集者の方と話した後、早めに帰宅して、HDレコーダーに撮りっぱなしにしておいた映画『海辺の家』を観る。離婚、失業、末期癌の三重苦に直面した中年男が、人間のクズまっしぐらだった息子を強引に巻き込んで、それまでの辛い人生が染みついた古い家を壊し、理想の新しい家を一緒に建てるという、少々甘ったるい話。しかしながら、途中からはもう涙滂沱としてとどめ得ず。いかった。 余勢を駆って、ずーっと前に買ったままだった往年のディストピアSF映画『ソイレント・グリーン』も観てしまう。僕は2980円のときに「安い!」と喜んで買ったが、いつのまにか廉価版で980円になっていた。 僕はこの傑作B級映画が描く暗〜い未来を偏愛しているのだ。小学6年生のとき、「未来の所沢市を想像して描きましょう」と言われて、破滅しかけた真っ暗な世界を思いっきり描いたら、しょーもないおばさんの先生に「人間はそんなに愚かではありません」とたしなめられたことを思い出す。いまとなっては、悪い指導ではなかったと思うけど。人類はそんなにすっきりと絶滅なんかできません、核戦争やなんやかやで人口が激減しても死に絶えたりはせずに、未来永劫のたうちまわって苦しむのですという筒井康隆のエッセイ(『狂気の沙汰も金次第』)を読んでほとほと感心したのは、それから2年後のことだった。 |
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