| Top↑
|
どうもありがとうございます。
|
宣伝するのを忘れていましたが、一昨年、JASE(財団法人 日本性教育協会)でやったシンポジウム「腐女子文化のセクシュアリティ」の記録が、「性科学ハンドブック」の一冊として刊行されております。こちらからお買い求めいただけますので、よろしくどうぞ(アマゾン等では売ってません。あとは、JASE主催イベント会場などで手に入ります)。僕は司会とまとめ役だけで、中身は三十代の精鋭たちがアツく語り合ってくれてます。
|
なかなか読めないです……。
|
最近のいただきもの。ありがとうございます。なかなか詳しく紹介する余裕がないけど、せめてお知らせを。
|
タイトルだけをみるとポップ進化心理学の本みたいだが、本当のテーマは副題にあるとおり。1950年代から70年代にかけて行われた、三次にわたるいわゆる主婦論争に、その後のアグネス論争、石原里紗『ふざけるな!専業主婦』が仕掛けた議論、「負け犬」論議を加えて、全6次の主婦論争というパースペクティブを出している点が新しい。 たぶん昨日出た『日本経済新聞』の書評欄に紹介を書いたので、興味がわいた方はご覧ください。ウェブでも遅れて出るのだと思うのだけど。コラムを連載している『解放教育』(明治図書)の2月号にも、もう少し長いバージョンの紹介も書きました。 妙木本は論争史に主眼を置きつつ、時代ごとの性役割の状況とそれを突き合わせて議論しているのだが、性役割の現実そのものをアグレッシブな統計解釈によって分析した、こちらの傑作も併せてどうぞ。
|
『第二の性』をぼんやり読み返していたら、こんなフレーズがあった。
今朝の新聞に出ていた雑誌『SAPIO』の「女尊男卑」特集なんかが典型例だが、セクシズムに関して短絡的に「逆差別」という言葉をもちだすたぐいの連中は、要するに上のボーヴォワールの命題を相も変わらずベタに反復しているだけであろう。もっとも、重要な違いもある。ボーヴォワールが語っているのは三歳児のことであって、『SAPIO』の読者層であろう二十代、三十代の男ではない、ということもあるが、そのことではない。男であることがイヤで、本気で「女の子になる」のならいいのだ。誰にも非難されるいわれはない。そうではなくて、男としての見栄や既得権益は保持したまま、女の方が得している云々という攻撃によっておのれの欲求不満を解消したいだけの男たちがいるということだ。情けないと思うが、政治的および経済的には無視できない勢力ではあるにちがいない。 学生たちに(と)よく話すのだが、個別的にみれば「女の方が得してる」と言えなくもない場面は、生活のなかにはたくさんある。たとえば、貧乏な映画好きの男子学生が「女はレディース・デイで安く映画が見られて得だ」と感じるかもしれない。しかしその次の段階では、アホな学生は「逆差別だ、女ばかり優遇するな」と逆ギレを増幅させることしかできないかもしれないが、見所のある学生なら、より広い視野のなかに問題を位置づけ直して、「平均収入に男女格差があるからオレが割を食うのだ、性差別をなくさないとこんな理不尽もなくならない」という見通しにたどりつくかもしれない。「映画代を男性優遇にしてくれ、その代わり、平均賃金は女性優位にして、育児責任も男が引き受けることにしよう」というなら、それなりに筋の通った主張だが、そんなことを言う人はまずいないように思われる。 他方、誠実な女子学生のなかには、重い荷物を男子に運んでもらった程度のことで、何だかんだ言っても自分は女であることに甘えているのではないか、などと自問しはじめる人がいる。個人としてそうした反省を試みるのは意味のあることだろうが、それならば中途半端にせず、反省の前提そのものまで含めて反省の対象にするというところまで、考察を深めてほしいとも思う。つまり、筋肉の多い者が少ない者よりも重いものを運ぶのは不公平なのか公平なのか? 能力と報酬との関係はいかにあるべきか? つまり「公平」とは何か、「平等」とは何か、という概念そのものの意味まで考えてみることだ。もちろん、そこからは一人で考えるだけではだめで、腹を決めて勉強しなくちゃいかんのだが。
|
このブログをIE6以外で見るとレイアウトが崩れるんだけど、借りもののテンプレートを自己流でカスタマイズしてつかっているだけなので、どうにもできん(泣)。
本日は藤沢市まで往復。行きの車中でこれを途中まで読んだ。小泉改革以降の保育所施策の劣化に激しい
|
セックスワーカーに対する恥知らずな蔑視に怒り、かといってリベラリズム(?)による妙に多幸症的な売買春肯定論にものらず、タイと日本でのインタビュー調査にもとづいて売買春の(少なくともいくつかの面の)リアリティを描き出そうとする誠実な仕事。セックスワークについて調べたいという学生にまず勧めるべき本ができた。今後、僕としては、この繊細な内容を性懲りもなく「賛成/反対」に単純化する言説に抗して、この本を擁護する役目を果たせればよいのだが。
|
一昨日の晩はアメリカにおける「男性学」の先駆者の一人として知られる社会学者Michael S. Kimmel氏の講演を聴いた。NYUの「The Center for the Study of Gender and Sexualityの主催で、"What has happened to..." という講演シリーズの2回目(1回目のテーマはレズビアン・フェミニズム」)。キンメルさんは、ポール・サイモンを浅草育ちにしたような風貌の調子のいいオッサンだったが、話の内容は的確で、「男性学なんてもう終わったというような雰囲気があるが、そうではない」ということをコンパクトに、スタンドアップ・コメディ芸人みたいな喋りで一気に駆け抜けた。
特に印象に残ったのは2点。一つは、プロ・フェミニズムの男性学もまだまだこれからであるということの反面、それとは正反対の「強い男を取り戻せ」的な男性運動が、十年前にあれほど盛り上がりながら(スタジアムに何万人も集めて集会をやったりしていた)どこかへ消えてしまったのはなぜかと新聞記者に聞かれたが、とんでもない、かれらは消えてしまったのではなく、各地元の既存教会に溶け込んで目立たなくなっただけなのだということ。 もう一つは、これはアメリカでも日本の反フェミニズム(バックラッシュ)でも全く同じなのだが、それを唱道する人々は「男は弱い」「本当の権力を握っているのは女だ」ということを強調する。それにはそれなりの背景があって、そこにはいろんな要素があるので全体像を示すのは難しいが、一つ、「自分の特権性を直視するのは難しい」ということがある。その例としてキンメル氏が挙げていた体験は、何年か前、レイシズムの問題を議論するために何人かが集まったときのこと。参加者の一人は「私はイタリア系なので、生粋の白人じゃないんだが……」、別の一人は「私はユダヤ人なので、白人ではないんだが……」と口々に、居心地悪そうに自分のポジションをずらそうとし始めたという話で、これには僕も爆笑、しかしその後に少々の居心地悪さが残ったのも確かなことだった。 |
先日、『知らないと恥ずかしいジェンダー入門』という本を朝日新聞社から上梓しました。内容については、それなりの存在価値がある本だと思っているのですが、題名については……出版元の意向と著者の好みにずれがあり、結局著者のほうが譲ってしまいました。一つはもちろん、「知らないと恥ずかしい」の部分。かなり真面目に言いますが、世の中に知らないと恥ずかしいことは確かにあると思うけど、この本の内容がそうだと言い切るつもりは僕にはない。それに、最近よくある脅迫的な題名ってあんまり好きじゃないんだが、まあこれくらいなら冗談の範囲か……。二つめは、細かいっちゃー細かいんだけど、ジェンダーに入門するというのは、ほんとはおかしい。ジェンダー論とか、せめて括弧を付けて『「ジェンダー」入門』にしたかったんだけど、これも押し通せませんでした。いや、本を作るというのは、著者ひとりの作業ではなく、編集、出版、装丁、印刷、宣伝のそれぞれに関わる人たちの共同作業なので、著者としてあんまりエゴを通そうとは思わない。僕はとくに編集者の意見は素直に取り入れる方だと思う。だからできあがったもの自体に不満はないし、特に編集者の方にはたいへん感謝しているけど、それとこれとは別と言うことで、みなさん、題名のことは大目に見てやって、ぜひ学生さんにお薦めください。
|
先週はモントリオールで開かれたアメリカ社会学会の年次大会に行ってきた。いろいろ面白いことがあったけど、いちばん感慨深かったのはグロリア・スタイネムさんの特別講演を聴いて、顔を拝めたこと。グロリア・スタイネムとは、1970年前後に『Ms』マガジンを創刊するなど、ウィメンズ・リベレーションの一翼を担った超大物なのだ。それにしても堂々として、話がうまく、人間的魅力をつねに発散しているような人だった。講演の内容そのものは「これからも闘いつづけましょう」的なものであまり意外性はなかったけど、「死後の生のほうが生そのものよりも重要視される」考えがこの世界にのさばっているというフレーズには、やはり胸を打たれた。
昨夜はNYヤンキースの試合中継が雨で中断しているあいだにTVのチャンネルを適当にいじっていたら、ニューヨーク市立大学(CUNY) の番組でベティ・フリーダンが出ていた。言うまでもなく1960年代に『フェミニン・ミスティーク』でセンセーションを巻き起こし、全米女性機構(NOW)を創始して、ウィメンズ・リベレーションに導火した人物である。といってもこちらは故人なので、何年か前に撮影されたもので、内容からいって『老いの泉』という著書刊行後すぐだろう。この人は晩年はかなり魔女風の風貌だが、あくまでも信念に忠実に生きるという、いかにもアメリカの知識人らしい風情にはとりあえず唸らされる。フリーダンは1975年の世界女性会議メキシコ大会にアメリカ代表団の団長として出かけていって、第三世界からの代表者たちに先進国白人中産階級の高学歴女性のことしか目に入っていないと痛烈に批判されたそうだが、その後も根本的にはアメリカ人のことしか語らなかったように思う。縁あってぼくが書評も書いた『ビヨンド・ジェンダー』という本でも、その限界というか、一貫性は変わっていなかった。それなりに鋭い指摘もしている本ではあるんだけど。なぜかリチャード・ニクソンを思い出す。あれほどの悪事を行なって地位を失いながら、終生ひるむことなく、名誉回復のために動き続けたニクソン。 写真はスタイナム(ブレブレだし、肖像権は大丈夫でしょう)と、モントリオール郊外のサファリパークにいたうり坊。 ![]() ![]() |
これまで、男女共同参画政策やフェミニズムや性教育をさんざん罵倒し、でっち上げまでして否定してきた、あの高橋史朗氏が、なんと東京都の男女平等参画推進審議会委員に選出されたことをめぐるアクション。こちらをご覧ください。→http://www.cablenet.ne.jp/~mming/against_GFB_2.html
なんというか、喩えるならば、細木数子を科学教育関係の審議会委員に据えるのにも似た、というか。違うか。 |
|
| Top |
|


































