きのう、1年生向けの授業でネタにしようかと思って持っていったが、結局つかわなかった表題作を、きょう電車のなかで読んだ。自分とは何かという問いを脳科学的な決定論と自由意志への信憑との葛藤から――さらにその深奥にあるのは個と進化との相克である――考える、とまとめれば身もフタもないが、このまさしくグレッグ・イーガンなモチーフを、最も哀切に描いた短編だろう。
それにしても、以前に読んだときは、自己がしょせんは進化の産物であることを受け入れる主人公の〈決意〉をきわめて肯定的なものと感じたが、今度改めて読み返したら、哀しみのほうがずっと重く胸に迫ってきた。かつて黄金時代のSFは、アイデアの斬新さが勝負であるがゆえに「決して二度読んではいけない」などと言われたが、遅くともエリスンやティプトリー以降の成熟したSFにはあてはまらない。イーガンにしても、ウェルズやハミルトンのような古典のような意味で「史上初」のアイデアがあるわけじゃない(とはいえ、「量子サッカー」の目眩く描写はかつてどこにもなかったものだと思うけれど)。むしろドラマと一体化したその思考実験の展開の突きつめ方にこそ面白みがあるので、すぐれた哲学書や評論と同じように、何度も読む度に新鮮な驚きがあるはずなのだ。
とはいえ、実はこれまでぼくは同じ本を2回以上読むことはあまりなかった。『資本論』だって大学2年のときに一応読んだっきりでいままで来てしまったし、『言葉と物』は2回通読したけどそれはたまたま読書会があったから。『道徳の系譜』も『プロ倫』も『アンチ・オイディプス』も『理由と人格』も、部分的に見直したのを除けば、ほぼ1回しか読まず、そのうろおぼえを頼りにあれこれ考えてきたのだった。しかし、最近やっとわかったのは、それじゃいかん!ということ。そして、それはもったいなさすぎる!ということ。大学院の授業で扱うためにデュルケーム、ウェーバー、マルクスをそれぞれ数年以上ぶりに再読したら、昔よりはるかによくわかって面白い、という経験をしたのである。とはいえ、1回目から間をおかずに再読しても、効果は薄いようだ。『人間の条件』も数年前に授業で扱ったので2回以上は読んでいたが、その本当意義がわかってきたのは昨年『〈個〉からはじまる生命論』を書きながら一部を読み直しているときだったもの。若いときに、わけもわからずがむしゃらに読んだ名著を、数年以上たってから落ち着いて読み直すのがいいみたいだ。 こんなことはもしかしたら常識もいいところで、今頃こんなことに気づくのは遅すぎるのかもしれないが、まあ仕方がない、これからはすぐれた本を繰り返し読むことにしたい。そして若い学生諸君には、どんなにわからない本も石に齧り付くつもりでとにかく読んでおくことを勧めたい。それにしても、とっくに折り返し地点も過ぎたというのに、ますます長い寿命がほしくなるなあ。
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最近買ったもの。
はじめてのブルーレイディスク。でも、まだ観てない。PS3(旧モデル、SACDがかかるやつ)で観る(夏休み中には)。 そして、まだ届いてないけど、
ツタヤDISCASで借りてちまちま観てのだけど、amazonで安くなっていたのを見て、もうたまらず、ぽちっと。 すでにオレのなかでは『2001年宇宙の旅』『ブレードランナー』『風の谷のナウシカ』等々に匹敵する――まったく別の――名作。……オレたち女子の〈ユートピア〉はここにあったのだ。 市川実和子に負けないくらい素敵な市川実日子に……何を贈ればいいのだろう。薔薇、じゃないし、拍手、じゃせこいし、乾杯、もなんかちがう。どうしよう。 |
いつもポケットに吉田秀和を。ちくま文庫で「吉田秀和コレクション」が出たので、電車のなかで一冊ずつのんびり読んでいこうと思っていたが、そうはいかなかった。ゆったりした文章なのにいつのまにか引き込まれてどんどん読み進んでしまうのは――ただし、時折歩みをとめて自分の音楽体験と(僭越ですが)照らし合わせながら――音楽を聴く人間なら誰でも考えたことがあるだろう素朴な問いの数々に、著者がノンシャランとした語り口で、しかしあまりに適確無比な「回答」をどんどん出していくから。しかもそれは、いわゆるクラシック音楽にかぎられない、普遍の認識なのだ。 たとえば、ロックを聴いていて、どんなミュージシャンも最初の3、4枚までのめくるめくような閃き・驚きが、その後の作品から消えていくのはなぜなのだろうか、と思ったことのある人は多いだろう。その点について、吉田氏はこんなことを言っている。 なんと平明で、簡単に読み流してしまいそうな文章で、「ほんとうのこと」をこのうえなく適確に言ってしまうのだろう! しかも吉田氏は、ここまでに書いたことを(またしてもあっさりと)裏切るようにして、つづけるのだ。 そして吉田氏は、この「自己内対話」には決着をつけずに、「だが、芸術が、芸術として、より完成したものになるというのは、どういうことか?」という、より本質的な問いのほうへ進み、シューベルトについて語るのである。 かつて水上はる子は、ロック・ミュージシャンの最高傑作は2枚目まで(あれ、デビュー・アルバムだけ、だったかな?)という趣旨のことを言い、それをロックという現象そのものの本質に重ねていた。正直に言えば、僕も同じように思うことが多かった。たとえば、何千回も聴けば聴くほど、ビートルズの最高の瞬間は「抱きしめたい」と「シー・ラヴズ・ユー」だという冷厳な事実を否定することはできなくなっていくのではないか? ブルース・スプリングスティーンの傑作群の中で僕が最も愛する曲は、3枚目の『明日なき暴走』の冒頭を飾る「サンダー・ロード」だけれども、そこにさえもはやデビューアルバムや2枚目の「都会で聖者になるのは大変だ」「7月4日・アズベリーパーク」のあの息を呑む瑞々しさは薄れているのではないか? U2の名作は『ヨシュア・ツリー』で、たしかにあのアルバムが出た当時ぼくも「何かとてつもないことが起きている」感に打ち震えたものだけれど、でも本当に食い込んでくる曲は「サンデー・ブラデー・サンデー」「ニュー・イヤーズ・デイ」までだったように思えてならない。同じことは、ボブ・ディラン、ザ・フー、エルトン・ジョン、ルー・リード、ブライアン・イーノといった巨匠たちから、少なくともオアシスにまでつづいていると、どうしても思ってしまう。それは、ポール・マッカートニーやブルース・スプリングスティーンの近作がどれほど素晴らしかろうと――たしかにそれらは素晴らしいのだ、まるで昔の作品たちのように!――変わらない。 けれども、一方でどうしてもそう感じながら、ロックにだって「成熟」があるのではないか、「完成」そのものはなくとも、そのどこか知らぬ方向へ向かって進むということはありうるのではないかと、考えたい気持ちもあるのだ。どこかで、カート・コバーンが言っていたのをうろ覚えに覚えている。あるときテレビでピート・タウンゼントのライブを観て、そもそもザ・フーなんか好きじゃなかったし、もう大した曲を書いているわけでもないのに、タウンゼントのやたらに元気なパフォーマンスを見て、不思議な感じがしたと。それを彼は、必ずしも吐き捨てるように言ったのではなかった。
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「大学院基礎演習」の二番目のテキストは、マックス・ウェーバーの名高い短編「世界宗教の経済倫理・中間考察」。ここでウェーバーは、なぜ宗教(プロテスタンティズム)だけが資本主義を生みだす原動力になったのかという例の問いを、戦争、性といった、人間を突き動かす他の要因、いわば宗教のライバル候補との対比において論じている。
その白眉は性という不可解な力をめぐる深く鋭い洞察だ。ウェーバーがフロイトを高く評価しつつも批判し、同時代の「性の解放」運動にも微妙な距離をもっていたことは、上山安敏『神話と科学』等を通じてよく知られるようになっていると思うが、単なる「堅物」ではない洞察力あふれる人間ウェーバー像を念頭において読むと、「中間考察」における性をめぐる叙述はより一層の迫力を帯びて感じられるようになる。 そうしたウェーバー像を描き挙げるのに最も功績のあった立役者マーティン・グリーンの『リヒトホーフェン姉妹』には、こんなエピソードが出てくる。ウェーバーは「中間考察」を何度も書き直し、「そのたびごとに性的および美的経験について、より詳しく、より共感をもって述べられているのがわかる」(邦訳240-241ページ)。バウムガルテンは、この拡大の歴史が、 ちなみに「エルゼ」とは、グリーンの本の題名になっている、同時代のドイツの知的世界に独特の存在感を発揮したリヒトホーフェン姉妹の一人、美しく鋭敏なエルゼ・ヤッフェのことである。 ウェーバーはとにかく本人の文章の密度が凄いので、わからないことが出てきてもとにかくその中に身を投げ出すのがいちばん。お行儀の良い概説書では、その魅力は消えてしまう。まずは邦訳もこなれた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読むのがいいでしょう。同時代の知的空気を味わいたい人には、上山、グリーンの前掲書。入門書としては、ウェーバーが何と戦おうとしたかに焦点を絞った山之内靖のものが僕は好きで、繰り返し読んでも飽きない。山之内流読解の源流といってもよい、K・レーヴィット『ウェーバーとマルクス』は、いまなお迫力のある論文。
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まだ実物を見ていないのだけれど、どうやら490ページもある大著のようだ。長田弘の、たとえば『詩は友人を数える方法』の文章の佇まいに、僕は深く影響を受けていると思う。十年前のサンフランシスコで、夜の侘びしさに茫然としたとき、僕は長田弘の文体でそれを言い表そうとしていた。長田弘の「旅」は「夜」の同義語だ。
でも、なんといっても僕にとっての長田弘は、あの透明な残酷さを湛えた『ねこに未来はない』に尽きる。
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最近、病気がぶりかえしたみたいに、ニューエスト・モデルとソウル・フラワー・ユニオンを聴いている。いずれも知る人ぞ知る〈最後の空想的社会主義シンガー〉中川敬によって率いられた最強のロック〜ミクスチャー・バンド。とはいえ僕自身は、ソウル・フラワーがてらいなく政治色―というよりは市民運動色―を増していった時期以降、煮え切らない敬意は感じつつも、積極的には聴かなくなっていた。僕にとって中川の最高傑作は相も変わらずニューエスト・モデル最後のアルバム『クロスブリード・パーク』からの大作「底なしの底」。〈もう期限切れだろ/このまま風に吹かれたいのさ〉とうそぶく一行目から、〈この地面が底なしの泥沼でも泳げるかい/底なしの底に何がある/その奥には何がある?〉という執拗なリフレインまで、何千回聴いても背筋が寒くなり、脳髄が熱くなる傑作だ。
でもそれ以上に、ときたま無性に聴きたくなるのは、『カウンター・センサーシップ』という寄せ集めのアルバムの冒頭を飾るカヴァー3連発。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド「おもろのきわみ」(We're gonna have real good time together)、ボブ・ディラン「嵐からの隠れ場所」、そして何よりも、甘酸っぱさと苦みが渾然と溶けあったヴァン・モリソン「杉の木の宇宙」(Redwood tree)。もう何年も、僕はこの曲のオリジナルをずっと聴きたくてCDの新品を探し、あるいは再発を待ち焦がれていたのだが、なかなか出会えず、もう我慢しきれなくてさっきついにiTunes Storeで購入ボタンをポチってしまった。 ニューエスト版はファンク風味のビートに仕上げられていたが、ヴァン・モリソンの作品はもっとオーガニックなソウルの佳曲で、また別の味わいがある。そして、それ以上に驚いたのは歌詞だ。Reddwood treeの内容はだいたいこんな感じだ。子犬といっしょに虹を探しに出かけた少年。いつか野原か森のどこかで犬はいなくなる。少年は父親と子犬を探しに行く。でももう子犬はどこかへ行ってしまって、みつかりはしない。あれからの月日、少年が何を学んできたか、君にはわかるだろうか……。 ニューエスト版の訳詞も基本的なストーリーは同じだ。けれど、中川敬による「超訳」には、明らかにそれ独自の世界観がある。それは次のような一連からわかる。 子犬を連れて虹さがしに行こう 日捲る毎に少年は何かを解いた 川べりを抜けて荒野を駆け巡り 襲い掛かる夕闇に全てを預けた ここでは、「何かを解いた」のは少年であり、「夕闇に全てを預けた」のも少年である。つまり少年がみずからを見知らぬ世界と未来に投げ出していく、その能動性が強調されていく。そしてオリジナルとの決定的なちがいは、ここには「父親」が登場しないことである。ヴァン・モリソンが、 And a boy and his father went out, Went out looking for the lost dog と歌うところで、中川は 林道の脇で子犬とはぐれたまま 秒刻みに少年は何かを解いた と語る。少年がはぐれた子犬を探さなかったわけではないだろう。けれど、歌詞そのものには、そのことは明示されない。少年は子犬とはぐれたことを、宿命への成長として、力強く受け入れているように見える。そしてその「自立」のために、父親の手も影も必要とはされていない。だから、中川の唄には、ヴァンのような噛みしめられたノスタルジーはない。それは音楽にとって、強みでもあり、弱みでもあるだろう。現在の僕にとって風を感じられるのは、少年へのまなざしを通して聴く者自身に〈何を学んできたのか〉を問いかける、ヴァン・モリソンのヴァージョンの方だ。 残念だけれども、『カウンター・センサーシップ』は入手困難のようだ。ヴァン・モリソンのヴァージョンはiTunes Storeで買える。収録アルバム名は、Saint Dominic's Preview。
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音楽誌やオーディオ誌になんとも良い味の自伝的―というとちょっと大げさだけど―な身辺雑記を書いている牧野さんの単行本。『CDジャーナル』に連載した記事に加筆したものらしい。僕より数歳上の世代に属する田舎の高校生が1970年代前半の洋楽にめざめ、ハマっていく日々を活き活きと描いたイラスト・エッセイ集である。
サイモンとガーファンクルからはじまって、もちろんビートルズ、エルトン・ジョン、シカゴ、イエス、キング・クリムゾン、ピンク・フロイドといった大物アーチストの話が中心なのだが、アーチストそのものにかんするウンチクよりも、「地元のレコード屋で買った『アビー・ロード』の1曲目(「カム・トゲザー」だ!)がまったく気に入らず、半泣きで『サージェント・ペパーズ』と取り換えてもらった」とか、「名古屋でやったサンタナのライブに学校をさぼって行こうかと悩んだが、結局不良になりきれず、学校が終わってからダッシュで出かけたらようやく間に合った」とか、ときには「高校の卓球部で、まったくのシロウトなのに大将として試合に出されそうになり、自分の前の選手たちが全員負けたので出ないで済んだ」といった音楽とはまるで関係のないネタも含め、まさに微笑ましいとしか言いようのない中学生&高校生ライフに、読者は思わずうんうんとうなずかずにはいられない。 そして何より魅力なのは牧野さんの驚異の記憶力で、出てくるレコードや身の回りの品々、何よりオーディオ機器のディテールがまったく手抜きなく完璧に描き込まれているのが、もうとっても楽しいのだ。たぶん、いや絶対、一部の読者には。だって、アンプやカセット・デッキの絵だけでメーカーや型番がだいたいわかるんだもの。楽しいよね? 音楽の話としては、牧野さんの思い入れが感じられるサンタナについての文章がとくに良い。『ロータス』の超大22面ジャケットを全開できる部屋にようやく住めるようになったという話には実感がこもっている。悲運のシンガー・ソングライター、ジム・クロウチをめぐる思い出―まだ肉親の死にも遭遇したことのなかった若き著者にとって、自分の知っている人間の死にはじめて触れた経験―もしみじみ読ませる。ジム・クロウチは僕の守備範囲外だったけど、牧野さんの文章を読んでベスト盤を買ってみた。思いこみのせいだとは思うけど、どこか遠いところから聞こえてくるような声だった。
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シンゴの誠実に打たれたショウゴが覚醒し、メグは間一髪のところで救出される。"ヤンキー狩り"こと神代ユウはボコボコにされるが、大怪我はなし。龍は意識不明、八木も(精神を)壊され、鉄もイザワマサキの敵ではなかった。そしてキングだけが残る。次の巻が最終巻だという。あまりにも自省的で老成した少年たちによる甘美な暴力の宴ももう終わるのか。とても、とても寂しい。
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今週の火曜日の夜は、サントリー・ホールでパーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送管弦楽団の「ブルックナー:交響曲第7番」と、エレーヌ・グリモーを加えた「ベートーヴェン協奏曲第5番〔皇帝〕」を聴いた。
「皇帝」の方は、曲の明るさ・優美さがさらに拡げられたような演奏。爽やかで良いのだけれど、いまひとつ食い足りないのも確かで、思えばグリモーさんのCD(指揮者・オケは別の人たち)もそんな印象だった。残念ながら、たぶんこのCDではグリモーの魅力はわからない。たとえば、下に挙げた「クレド」のCD(現在最高峰の超高音質SACDもあり)を聴けば、その透明にして建築的な響きを聴きとれると思う。 パーヴォ・ヤルヴィのブルックナーの方は、期待&予想を超える面白さだった。パワフルにがんがん行く指揮者だというイメージをもっていて、その通りではあったけど、びっくりしたのは何ともカラフルなブルックナーだったこと。いままでギュンター・ヴァントのいぶし銀な録音ばっかり聴いていたから相対的にそう感じるのかな、とも思ったが、いや音響的なダイナミック・レンジの広さといい、リズムの厚み(ブルックナーの音楽にはじめてベートーヴェンのようなグルーヴを感じた)といい、これはやっぱりヤルヴィさんの確たる個性だろう。僕が大好きな第2楽章はゆったりめのテンポで染み込むように聴かせてくれたし、第4楽章のラストの盛り上がりは沸き立つようだった。でも強いて言えば、どの楽章もあまりに力強すぎて、ちょっと平坦な感もあり。そのへんの「コク」がもうひとつ深ければ、感動の名演になったのになあ。 それにしても感心したのは、演奏会のあとで疲れ果てているはずなのに、グリモー、ヤルヴィ二人そろって終演後にサイン会をやってくれたこと。しかもグリモーさんは僕が「ありがとう」というとにっこり微笑んでくれたこと。うーん、幾多の挫折を乗り越えた天才ピアニストにしてオオカミの保護活動に精を出している人の微笑みはやっぱり(?)違う。
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タイム・イン・ア・ボトル~ベスト・オブ・ジム・クロウチ


