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夏の読書 | 2008-08-20 23:52
オリンピック三昧、ながら。

垂直の記憶―岩と雪の7章垂直の記憶―岩と雪の7章
山野井 泰史

山と溪谷社 2004-03
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 難峰ギャチュン・カンでの死闘の記録は圧巻。物質のような「文学」の重量感が腹に来る。

ビヨンド・リスク―世界のクライマー17人が語る冒険の思想ビヨンド・リスク―世界のクライマー17人が語る冒険の思想
Nicholas O’Connell 手塚 勲

山と溪谷社 1996-12
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 原著は1993年に出た超一流アルピニストたちへのインタビュー集。巻頭はラインホルト・メスナー、ほかにヒラリー卿やボナッティ、山野井ともザイルを結んだポーランドの〈タオイスト〉ヴォイテク・クルティカたちにつづいて、ローツェ南壁を単独で陥落したと主張する〈疑惑の人〉トモ・チェセンが巻末を締めるのは刊行年からして仕方がないか。

存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)
Martin Heidgger 原 佑 渡辺 二郎

中央公論新社 2003-04
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 いまのところ、いちばん新しい邦訳。妙にすいすい読めて、よくわかる気がするのは、錯覚か?

のんのんばあとオレ (講談社漫画文庫)のんのんばあとオレ (講談社漫画文庫)
水木 しげる

コミックス 1997-07
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 何十回読んだかわからない。何十回読んでも深〜く染みてくる。「戦前」という馬鹿馬鹿しいまでに乱暴で粗雑だった時代の日本における、少し中心から外れた幼年期の記録。子供たちのやるせない〈運命〉に比べて、妖怪たちの存在はなんと愉しげなことか(学校も試験もないから、だけではない)。

コミュニタリアン・マルクス―資本主義批判の方向転換コミュニタリアン・マルクス―資本主義批判の方向転換
青木 孝平

社会評論社 2008-02
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 現代倫理学研究会の次のテキストということで、今日、4分の3ぐらいまで読んだ。非常に面白いのだが、なんだか話があまりに出来過ぎな気もしなくはない。同じ著者の、『ポスト・マルクスの所有理論』(社会評論社)も古本で買ってみた(現時点で、アマゾンでは取り扱っていないようだ)。

倫理問題101問 (ちくま学芸文庫 コ 24-1)倫理問題101問 (ちくま学芸文庫 コ 24-1)
榑沼 範久

筑摩書房 2007-05
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 電車の中で読んでいる途中。イギリスの哲学誌編集長が書いた、タイトル通りの本。
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訂正 | 2008-08-08 12:02
前のエントリで『日本文壇史』の巻数をまちがえてご紹介しておりました。正しくは第8巻ではなく、第7巻です。訂正しておきます。
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日本文壇史 | 2008-08-05 23:08
日本文壇史〈7〉硯友社の時代終る (講談社文芸文庫)日本文壇史〈7〉硯友社の時代終る (講談社文芸文庫)
伊藤 整

講談社 1995-12
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 何年も前から間歇的に読んでいる『日本文壇史』。資料の文章をそのまま地の文として引き写したものを切り貼りし、登場人物の行動や考えを描写する、伊藤整の奇妙な文体もすっかり癖になってしまい、しばらく読まないとどうにも気になってくる。今度はずいぶん長い(2年ばかりの)間をおいて、第7巻「硯友社の時代終わる」を読了した。

 この巻は、対象としている時代(日露戦争前夜)そのものの特質だろう、ここまでの六つの巻に比べてもひときわ濃厚な一冊で、とりわけ胸に迫るのは斎藤緑雨の死の場面だ。よく言われるように、そもそも明治の文学者たちというのは、現代の基準で言えばほとんどがえらく若死にしているのだが、「寸鉄釘を穿つ」タイプの批評家・緑雨のように、才能はありながら圧倒的な名作を遺したわけでもなく、当時も今も「知る人ぞ知る」的ポジションにとどまっている――それだって実はたいへんなことであるわけだが――人の、いかにも中途半端な死に様というのは、何ともいえずやるせない。しかもそれが、才気煥発な毒舌と皮肉を弄する一方で、貧乏のせいで究極の夭折をした樋口一葉の晩年(!)に交わり、一葉の死後に草稿が出版されるよう尽力した優しい人の、三十代後半の死であるならば。

 明治・大正の文人たちの人となりをもっと手軽に――とはいえ、なかなかの含蓄をもって――イメージするには、斎藤なずなの漫画『千年の夢』をどうぞ。斎藤緑雨が登場する樋口一葉の話は下巻に収められている。

斎藤緑雨 (明治の文学)斎藤緑雨 (明治の文学)
坪内 祐三 南 伸坊

筑摩書房 2002-07
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千年の夢―文人たちの愛と死〈上巻〉 (小学館文庫)千年の夢―文人たちの愛と死〈上巻〉 (小学館文庫)
斎藤 なずな

小学館 2002-02
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千年の夢―文人たちの愛と死〈下巻〉 (小学館文庫)千年の夢―文人たちの愛と死〈下巻〉 (小学館文庫)
斎藤 なずな

小学館 2002-03
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孤高の人 | 2008-08-04 14:09
 というわけで、新田次郎の山岳小説の傑作群をどうぞ。暑さの夏に、これ以上うってつけの読書はありえまい。
 集団にけっして道を譲らなかったという〈孤高の単独行者〉加藤文太郎にちょっとだけ倣って、僕も我が物顔で通路を覆い尽くす集団と相対したときには、けっしてよけずに真ん中を突っ切ることにしている(1対1のときは率先して道を譲る)。二人の優秀な女性登山家たちの生涯を描いた『銀嶺の人』のラスト近く、主人公の一人が遭難死する場面の鋭利にして静謐な描写は、忘れ得ぬ名文のひとつである。
 僕が若い頃に純粋な敬意と憧憬の念を抱いていた当時現役の登山家たち、植村直己も長谷川恒男も小西政継も、山で死んでしまった。修士課程の院生だった頃に冬の硫黄岳での訓練山行につれていってくれたガイド役の女性登山家も、その後剣岳で滑落死した。当時二十代後半だった僕を、なぜか16歳と勘違いして、山小屋の人に対する口の利き方が生意気だと注意されたことをよく覚えている。ちょっとした趣味の範囲であっても、継続的に山に登っていると、生きることの果ての死というものについて、否応なく考えるようになるものだ。

孤高の人 (上巻) (新潮文庫)孤高の人 (上巻) (新潮文庫)
新田 次郎

新潮社 1973-02
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孤高の人 (下巻) (新潮文庫)孤高の人 (下巻) (新潮文庫)
新田 次郎

新潮社 1973-02
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銀嶺の人 (上巻) (新潮文庫)銀嶺の人 (上巻) (新潮文庫)
新田 次郎

新潮社 1979-05
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銀嶺の人 下    新潮文庫 に 2-18銀嶺の人 下  新潮文庫 に 2-18
新田 次郎

新潮社 1979-05
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環境リスク学 | 2008-08-03 12:01
環境リスク学―不安の海の羅針盤環境リスク学―不安の海の羅針盤
中西 準子

日本評論社 2004-09
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 2004年の刊行時にはかなり話題になった本をようやく読む。環境リスクとは何か、その意義がよくわかる入門書。

 多くの評者たちが言及してきたように、「思想」の争いには決して決着がないことを若くして悟り、万人が認めうる「ファクト」だけを追究すべきだという信念を、学会や政治家や市民団体からのさまざまな圧力に抗してつらぬく姿勢にも感銘を受ける。だが、むろんそれ以上に大事なのは著者が結果として環境リスク評価に成果を挙げてきたという事実である。良心的な姿勢をもっていても、学問的に見るべきものを生み出せなければ、そんな良心なるものには一文の価値もないのだから。

 けれども、僕が著者を本当に信用できると思うのは、むしろファクト至上主義という信念を自ら裏切るような思索を展開してしまうところである。現実的な問題にかんして、知的に誠実であれば、そうならざるをえないだろう。しみったれた「一貫性」などに納まってはいられないのだ。
 たとえば、健康被害のリスク評価にQOL(生活の質」という概念を導入すべきかどうかをめぐる、以下のような叙述。

 生活の質を考える? それはいいことだ。生きている間も苦しいのだからと多くの方が言います。しかし、実は私はQOLの研究をすること、および、それを使ってリスク評価をすることを研究室の院生やCREST(戦略的基礎研究推進事業)の研究員に長い間禁止してきました。(中略)QOLの評価は、生きている人生の質の評価です。もちろん、それは低下したQOLを回復するために使うのですが、それが完全に回復されない間は、質の低い人生とみなされるという問題が起きてきます。そのことを認めたくなかったのです。その領域は、やすやすと踏み込めるものではないと考えていました。(125ページ)

 池田正行さんの『食のリスクを問い直す』(ちくま新書、2002年)に、かつて、あるエイズ患者が、テレビで“エイズ撲滅キャンペーンというのは、自分を撲滅するキャンペーンのように思える”と語っていた、という記述があります。そうなんです。その人を救うためであっても、低いQOLだと評価されることは、当事者にとってはつらいことなのです。しかし、評価されなければ救済もされないのです。(129ページ)

 これはもはや「ファクト」の領域ではなく、著者が断念したはずの「思想」「イデオロギー」の領域の問題であることは言うまでもないだろう。ここから、ファクト至上といってもそれが通用するのは前提として大方の価値判断が共通している問題についてだけであって、そもそも何をリスクとみなすかという価値判断や世界観が争われうるところでは役立たない、といった論難をぶつけることは簡単なことだ。それはたしかに間違っているわけではないし、倫理学の存在理由はそこに宿るのだとも言える。

 でも、その誰にでもわかる正しい論難をふりまわして、いろんな意見がある、利害対立がある、といった自明のことを言い立てているだけでは、いくらなんでもバカすぎる。それも簡単に認識できることだ。「評価にはこういう難しさもあるのです。しかし、すべてを救うわけにもいきませんので、何らかの評価が必要になるのです」(129ページ)という著者の淡々とした言葉にかくされた重みに見合う「思想」が必要なのだ。「差別」を生みださない行為というものはない。何かを実行し、誰かを救うことは、必ずその影としての差別を顕現させる。まったく副作用のない薬品がありえないように、まったく差別的でない社会的行為というものもない。したがって、何かを行ない、何かを喋るなら、必ずそれによって傷つけられ、相対的剥奪を被る人はいる。それは行為すること、ましてや言論を弄することの原罪のようなものだ。もちろん、何もせず、何も主張しないことで、そうした原罪を免れることはできない。その場合は、いま行なわれている差別を追認するだけのことなのだから。だから、水に石を投げ込むことで生じる波紋をどのように引き受けるかが問題なのだと思う。

 僕にとっては、著者のような人こそが、真に「学者」と呼ばれるにふさわしい(「学者」という称号に、僕はつねに高い価値をおいている)。中西さん(だけではないが)に比べれば、自分はまだまだとてもじゃないが学者などと名乗るのはおこがましい、と感じる。しかし、だからといって、僕が中西さんのようなスタイルの学問を今後やっていくということでもないし、「思想」が無意味だと考えるわけでもない。むしろ逆に励まされる気がする。かつて筒井康隆は、新田次郎の『八甲田山死の彷徨』(だったっけ?)を読んでノックアウトされ、「これこそが小説だと思う、自分にはとてもこんな小説は書けない、だが自分の書くような小説もあってよいのだ、と自分に言い聞かせている」という手紙を新田氏に送ったそうだが、それに倣って、僕には著者のような学問はとうていできないが、いま自分が自分なりに突きつめてやりつづけているような「学問」もあってよいはずだと、自分に言い聞かせつづけよう。
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