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12月20日(水)
次の部屋探しから帰ってきて、ちょっと疲れた気持ちでラップトップを立ち上げ、たまたま松井秀喜が『朝日新聞』(12月6日)に書いたメッセージを読んだ。一行目が目に入ってきた瞬間、涙が出てきた。「君は、無理して立ち向かわなくていいんだ。」――何のことだろう。ページのトップの見出しを見たら、「いじめられている君へ」というシリーズのようだった。(著作権の問題があるが、リンクではいつまで読めるのかわからないので、あえて全文をコピーしておく。著作権者からイカンと言われたら消す。)
いじめ対策と称して、安倍晋三のような恥知らず(つまり、日本の伝統である「恥」の観念をまったく知らない)のオヤジどもが、いじめられる子といじめる子の双方をより一層しばきあげようとしている(安倍氏は、広島で小6の女の子が同級生を刺殺した事件があった夜、早速、それを自分の講演会で「国を愛する教育が必要だ」とぶちあげる理由に仕立て上げた「人でなし」である。彼にとっては、精神障害の疑いの濃い子供が他の子供の生命を奪うという不幸極まりない事件――つまり、愛国心だの何だのとは全く無関係の悲惨――でさえ、自分の政治的立場を宣伝するための道具にすぎないのである。日本の「優雅で感傷的な」、曖昧で優しい文化を真に守りたい人は、そうした伝統破壊を推し進める現政権に決して服従してはいけない)。それは要するに、自分たちの身勝手な不安や憤懣や憎悪を、子供をいじくることで解消しようとしていることにほかならない。彼らは日本をまるごとほとんどアブグレイブ収容所みたいな空間にするまでは満足しないのじゃないか、とさえ思えてくる。 そういう連中(武田鉄矢のような人も含めて)は口を揃えて、いじめられている子どもに「死んじゃいけない」「耐えろ」と説教する。またしても、より一層の苦労をしなければならないのは、理不尽にもいじめられた方なのである。鬱病の人に「がんばれ」と言えば、自殺してしまうかも知れない。それに対して、ある自殺志願者は、青酸カリを手に入れてから、生きることが楽になったという。ああ、これでいつでも死ねるんだ、と思えば、いますぐに死ななければならない理由はなくなるからだ。(もちろんこれが万能の処方箋だというわけではない。青酸カリが手に入った、よし早速死のう、という人だっているからだ。)いじめられている子がみんな鬱であるわけではないだろうが、いったい、どうしていじめなんかに耐えなければならないのか。いじめられた経験者の多くが書いているように、いじめというのはほとんど自然現象である。さっきまで快晴だった空がにわかに掻き曇り、いきなり真っ暗になって豪雨が降り出すように、いじめは始まる。いじめられている子に「生きろ」などと無責任に、高見から説教するやつは、雪が降ろうがミゾレが降ろうが傘をさすな。そして勝手にずぶ濡れになっていればいいのだ。いや、一時期のボスニア・ヘルツェゴビナみたいなところに行って、どこからか銃弾が雨あられと飛んできても、絶対に逃げたり隠れたりしないで、堂々と街を歩いて射殺されてろ。連中が本当にそうしているなら、命を粗末にする変なやつだとは思うものの、僕はそれなりに一目置くだろう。でももちろん、そんなやつはいない。 松井氏は、それは逃げるということじゃない、とも書いている。ここから彼が、そこらへんの過激ブリッコの馬鹿学者や馬鹿院生なんかとは正反対に、言葉というものを大切にする人であるということがわかる。けれども、僕は「逃げる」でもいいと思う。「逃げる」ということをただネガティヴに使うという習慣に抵抗したのは、もう(たぶん)若者は誰も読まない浅田彰の『逃走論』だった。「逃げろや逃げろ、正面切って戦おうなんてするな」というこの真にポジティヴなメッセージ、まちがいなく1980年代文化の最良の部分は、いわゆる「ポストモダニズム」(不勉強な僕はそれが何なのか未だに知らないのだが)の俗流版に潜んでいた怠惰なシニシズムに対する、それ自体がずぶずぶのシニシズムである科学主義、還元主義に取って代わられてしまったように見える。それは、言い換えれば、「フツーの大人になりましょう」ということだ。しかし子供たちが、そういう大人たちを見て、「あんたたちみたいになりたくないんです」と言っているときに、恥知らずでない大人は何を言い返せるだろう? 「子供の頃から憧れてたものに/なれなかったんなら/大人のふりすんな」(「不死身のエレキマン」)と叫んだ真島昌利は、もちろん大人に、自分自身に向けて説教したのだ。自分が、子供や若者が「あんなふうになりてえな」と思うほどかっこよくないのだとしたら、何を偉そうに言えるというのだ。 書いたものや発言、テレビで見る雰囲気(ヤンキースタジアムでも見たけど)からうかがえるだけだけれど、松井秀喜のように優しい人はめったにいないんじゃないか。彼は、文章の続きで、僕だったらいじめに荷担したやつは全員大型ヘリに積み込んでカンボジアの地雷原に空からばらまけとか滅茶苦茶なことを言ってしまいそうなところで(もう言ってるけど)、「人をいじめることが夢なんて人はいないはずでしょう」と言う。その通り。コピー取りやお茶くみが夢だった人がいないように、他人をいじめることが夢だった人なんかいるはずがない(きっと、ある種の政治家を除いては)。けれども、だから、いじめられる子に向かって、いじめる側の気持ちをわかってやれ、などということを、松井は決して言ったりはしない。彼はもう一度、「だから、いま君が立ち向かうことはないんだ。」と言って、文章を閉じている。この<だから>は、文章作法的には、直前の、いじめる側もきっとつらいんだという話とは、スムースにつながっていないように感じられるかもしれない。そう見えるのは、彼がこの<だから>に、あまりに多くのものを込めているからだ。すなわち、ここまでで説明してきたことのすべてを受ける役割を、彼はこの<だから>に負わせているのである。 僕が友人たちとつくった『図解雑学ジェンダー』という小さな本の最後の項目に、僕はこう書いた。 どこかの誰かがでっちあげた「らしさ」なんかに尻尾を振る必要はない。それが秩序を乱すとか身勝手だとか言い立てる、真の意味で身勝手な人達には、勝手に言わせておけばいい。 Amazonの読者評の中に、この本を基本的には褒めてくれているのだが、上の部分は「乱暴」だと書いている人がいた。残念だが、仕方がない。人間はひとりひとり、<完全に>違うのだ。 僕が「精神の共和国」の存在をはるかに感受したような気がするのは、読者という意味で少なくともある程度の関わりが自分とのあいだにある人ではなく、一生涯全く何の関わりも持たないに違いない松井氏のような人の言葉に触れたときなんだ。 精神の自由。自由人。ぼくがこうした概念から思い浮かべる、現に生きている「男」の一人はロジャー・ウォーターズ、そしてもう一人は松井秀喜である。だが松井には、ロジャーには感じられない――ジェフ・ベックはどこかで、ロジャーは1ポンド札一枚だけを持って世界中のどこへでも行けるようなやつだ、と言っていた――寂しさが感じられる。それと同じ質を僕は他のどんな有名人にも感じない。それがどこから来るのかは、誰にもうかがい知れないだろう。 |
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申しわけありません、送信した内容につけたしさせてください…
以下、<<>>内 つけたし 「白人である彼女を差別的に見ていっているのではなく、もし日本人ジャーナリスト・研究者が日本のセックス産業の現場写真を撮ることを想像したとき、きっとそれぞれの立場や差異(国籍・見た目・話す言葉等々)で様々なレスポンスが <<産業の現場にいる、当事者の方々から>>得られるのだろうな、と思ったからです。」 ではでは、失礼いたしました。 赤谷 このコメントは管理人のみ閲覧できます
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ネットをウロウロしていたら加藤秀一さんのエントリに出くわした。 http://katos.blog40.fc2.com/blog-entry-121.html 『逃走論』の位置づけに激しく同意。 (ナツ)のハッピー日記【2006/12/23 23:10】
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